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『華陽国志』巻一「巴志」ふんわり和訳

※素人が趣味で行っているざっくりとした現代語訳(日本語訳)です。当ブログについてをご確認のうえ自己責任でご利用下さい。訳文中、( )内はブログ管理人のコメントです。原文引用元は维基文库です。维基文库の校勘記を引用文から省いて维基文库が原文とみなした部分を訳しています。〔 〕内は他の史料から補われた部分が含まれていることも多いのでご注意下さい。维基文库の校勘についてはこちらの引用元をご確認下さい→引用元URL:https://zh.wikisource.org/wiki/華陽國志 最終閲覧日:2022年10月10日

巴志

一、

【原文】
昔在唐堯,洪水滔天。鯀功無成,聖禹嗣興,導江疏河,百川蠲脩;封殖天下,因古九囿,以置九州。仰稟參伐,俯壤華陽,黑水、江、漢為梁州。厥土青黎。厥田惟下上。厥賦惟下中。厥貢璆、鐵、銀、鏤、砮、磬、熊、羆、狐、狸、織皮。於是四隩既宅,九州攸同,六府孔脩,庶土交正,底眘財賦,成貢中國。蓋時雍之化,東被西漸矣。

【訳】
堯の頃、天をつくほどの洪水があった。鯀は治水を試みたが成果があがらなかった。禹が事業を継ぎ振興させた。河を導き水の通り道を作り、もろもろの川を修復し治めた。天下を経営し、九つの地域があったので九州を設置した。仰いでは征伐を拝命し、俯しては華陽を開拓し、黒水、江、漢を梁州とした。土壌は青黒く、農地は下の上、収量は下の中であった。きゅう(美しい玉)、鉄、銀、ろう(鋼鉄)、(矢じりをつくる石)、けい(打楽器を作る石)、熊、(ひぐま)、狐、狸、織皮(毛織物)を産した。こうして四方はみな人が住める土地となり、九州は平らぎ、財政も治まり、各地は正され、財賦は誠実に納められ、中国に貢納された。こうして教化は西から東に広まった。

【原文】
歷夏、殷、周,九州牧伯率職。周文為伯,西有九國。及武王克商,并徐合青,省梁合雍,而職方氏猶掌其地,辨其土壤,甄其【寶】〔貫〕利。迄於秦帝。漢興,高祖藉之成業。〔武帝開拓疆壤〕,乃改雍曰涼,革梁曰益。故巴、漢、庸、蜀屬益州。至魏咸熙元年平蜀,始分益【州】〔之〕巴、漢七郡置梁州。治漢中。以相國參軍中山耿黼為刺史。元康六年,廣【漢益】〔魏梁〕州,更割雍州之武都、陰平,荊州之新城、上庸、魏興以屬焉。凡統郡【一十一】〔十二〕,縣五十八。

【訳】
夏、殷、周のあいだ、九州は長官がとりしきった。周の文公が長官になり、西に九国ができた。武王が商(殷)に勝つと、徐州と青州を合併し、梁州を廃して雍州と合わせた。こうして職方氏(官名)がその地を掌握し、その土壌の価値を鑑定した。これは秦帝の頃まで続いた。
漢の建国のとき、高祖はこの地盤を使い大業をなした。〔武帝がこの地域を開拓した。〕雍州を涼州と改名し、梁州を益州とあらためた。このため巴、漢、庸、蜀は益州に属するようになった。魏の咸熙元年に蜀が平定されると、初めて益州を分け巴、漢七郡を梁州に置いた。漢中を治めるのに相国参軍の中山のこうを刺史とした。元康六年、【漢は益】〔魏は梁〕州を広げ、さらに雍州の武都、陰平を割き、荊州の新城、上庸、魏興を属させた。すべてで郡【十一】〔十二〕、県五十八を統治した。

二、

【原文】
《洛書》曰:「人皇始出,繼地皇之後,兄弟九人,分理九州,為九囿。人皇居中州,制八輔。」華陽之壤,梁岷之域,是其一囿;囿中之國,則巴蜀矣。其分野,輿鬼、東井。其君,上世未聞。五帝以來,黃帝、高陽之支庶,世為侯伯。及禹治水命州,巴、蜀以屬梁州。禹娶於塗山,辛、壬、癸、甲而去。生子啟,呱呱啼,不及視。三過其門而不入室,務在救時。今江州塗山是也,帝禹之廟銘存焉。禹會諸侯於會稽,執玉帛者萬國,巴蜀往焉。周武王伐紂,實得巴蜀之師,著乎《尚書》。巴師勇銳,歌舞以淩殷人,【前徒】〔殷人〕倒戈。故世稱之曰,「武王伐紂,前歌後舞」也。武王既克殷,以〉其宗姬【封】於巴,爵之以子。古者,遠國雖大,爵不過子。故吳楚及巴皆曰子。

【訳】
『洛書』にこうある「人皇地皇の後を継ぎ、兄弟九人で分担して九州を治めた。人皇は中州におり八州を制した」と。華陽の地、梁岷の域はそのうちの一つである。この地域の中の国が巴・蜀である。輿鬼と東井に分かれている。その君主については太古の世には聞かない。五帝以来、黄帝顓頊せんぎょくの支族が代々侯伯となった。禹が治水をし州を命名し、巴・蜀は梁州に属するようになった。禹が塗山で嫁とりをすると、辛、壬、癸、甲は去った。子の啓が生まれたが、産声をあげても見に行かず、門の前を三度通り過ぎても中に入らず、世を救うことに務めた。いまの江州塗山がこれである。帝禹の廟と銘がここにある。禹が会稽で諸侯と会見すると、玉帛をたずさえて参加する国がたくさんあり、巴・蜀も参加した。周の武王が紂を伐つさいに巴・蜀の軍勢を得たと『尚書』にある。巴の軍勢は勇敢で精鋭で、歌や舞は殷人を凌いでおり、殷人の先鋒は周に寝返った。ゆえに世間ではこう称されている「武王の紂を伐つや、前に歌い後ろに舞う」と。武王が殷に勝つと姫姓の宗家を巴に封じ、子爵とした。いにしえには遠国は国土が大きくても爵位は子爵を過ぎないものとされていた。ゆえに呉楚および巴はみな子爵であるという。

三、

【原文】
其地,東至魚復,西至僰道,北接漢中,南極黔涪。土植五榖。牲具六畜。桑、蠶、麻、苧,魚、鹽、銅、鐵、丹、漆、茶、蜜,靈龜、巨犀、山雞、白雉,黃潤、鮮粉,皆納貢之。其果實之珍者,樹有荔支蔓有辛蒟,園有芳蒻、香茗,給客橙、蕟。其藥物之異者,有巴戟天、椒。竹木之璝者,有桃支、靈壽。其名山有塗、籍、靈臺、石書、刊山。其民質直好義。土風敦厚,有先民之流。故其詩曰:「川崖惟平,其稼多黍。旨酒嘉穀,可以養父。野惟阜丘,彼稷多有。嘉穀旨酒,可以養母。」其祭祀之詩曰:「惟月孟春,獺祭彼崖。永言孝思,享祀孔嘉。彼黍既潔,彼犧惟澤。蒸命良辰,祖考來格。」其好古樂道之詩曰:「日月明明,亦惟其名。誰能長生,不朽難獲。」又曰:「惟德實寶,富貴何常。我思古人,令問令望。」而其失,在於重遲魯鈍。俗素樸,無造次辨麗之氣。其屬有濮、賨、苴、共、奴、獽、夷、蜑之蠻。

【訳】
その地は東は魚復に至り、西はほく道に至り、北は漢中に接し、南はけん・涪に極まる。土には五榖を植える。家畜は六畜をそなえている。桑、蚕、麻、からむし、魚、塩、銅、鉄、丹、漆、茶、蜜、霊亀、巨犀、山雞、白雉,黄潤、鮮粉、みな貢納している。果実の珍しいものでは、樹ではライチがあり、つるでは辛蒟があり、園では芳蒻、香茗、給客橙きんかんはい。薬物の珍しいものでは、戟天、椒がある。竹木の珍しいものでは、桃支、霊寿がある。名山には塗山、籍山、霊台山、石書山、刊山がある。民の性質はまっすぐで義を好む。風土は人情に厚く、先民の遺風がある。その詩にこうある「川崖は平らかで黍が多く取れる。うまい酒とよい穀物で父を養うことができる。野は小高く稷が多く取れる。よい穀物とうまい酒で母を養うことができる」と。その祭祀の詩にこうある「春先には岸辺で獺祭が行われる。孝の思いを永く述べ、祭祀を行うのにとてもよい。黍はきよらかで家畜はふんだんで、吉日に生贄を並べ先祖の霊を迎える」と。いにしえを好み道を楽しむ人の詩にこうある「日月の明るさにその名を思う。不老不死など期しがたいものだ」と。またこうある「徳こそが宝である。富貴など永続しないものだ。いにしえの人々の声望を思う」と。民の人情の欠点は鈍重なところである。素朴であり美辞麗句を言う気風はない。住民にはぼくそうしょ、共、奴、じょう、夷、たんという異民族がいる。

四、

【原文】
周之仲世,雖奉王職,與秦、楚、鄧為比。《春秋》魯桓公九年,巴子使韓服告楚,請與鄧為好。楚子使道朔將巴客聘鄧。鄧南鄙攻而奪其幣。巴子怒,伐鄧,敗之。其後巴師、楚師伐申。楚子驚巴師。魯莊公十八年,巴伐楚,克之。魯文公十六年,巴與秦、楚共滅庸。〔魯〕哀公十八年,巴人伐楚,敗於鄾。是後,楚主夏盟,秦擅西土,巴國分遠,故於盟會希。戰國時,嘗與楚婚。及七國稱王,巴亦稱王。周之季世,巴國有亂。將軍【有】蔓子請師於楚,許以三城。楚王救巴。巴國既寧,楚使請城。蔓子曰:「藉楚之靈,克弭禍難。誠許楚王城。將吾頭往謝之。城不可得也。」乃自刎,以頭授楚使。〔楚〕王歎曰:「使吾得臣若巴蔓子,用城何為!」乃以上卿禮葬其頭。巴國葬其身,亦以上卿禮。

【訳】
周の中頃には周が王の職を奉じているものの秦、楚、鄧もこれに並んでいた。春秋魯の桓公九年に巴子が韓服を楚に派遣し、鄧と友好関係を結びたいと請った。楚子は道朔を使者として鄧へ巴の客を赴かせた。鄧の南の郊外の人が使者を攻撃し使者の贈り物を奪ってしまった。巴子は怒って鄧を伐ち、鄧を破った。その後、巴と楚の軍勢は申を伐った。楚子が巴の軍勢を驚かせた。魯の荘公十八年、巴が楚を伐ち楚に勝った。魯の文公十六年、巴は秦・楚とともに庸を滅ぼした。〔魯の〕哀公十八年、巴の人は楚を伐ったがゆうで敗れた。のちには楚の君主は中華の会盟を行い秦は西方を専断したが、巴は遠方であったため会盟に参加することはまれであった。戦国の頃、楚と婚姻を結んだことがあった。七国が王を称するにおよび、巴もまた王を称した。周の末期に巴の国は乱れた。将軍のまん子が三つの城を割譲することを条件に楚に軍勢を要請した。楚王は巴を救った。巴の国が安定すると、楚の使者が城を要求した。蔓子は言った「楚の霊を借りて難を除いたのだから楚王に城を渡すべきです。私の首で勘弁して下さい。城を渡すことはできません」そうして自ら首をはね、頭を楚の使者に与えた。〔楚〕王は感嘆して言った「もし私が巴の蔓子のような臣下を得ることができたなら城など何ほどのものであろうか」そうして上卿の礼で蔓子の頭を葬った。巴国もその身体を上卿の礼で葬った。

【原文】
周顯王時,【楚】〔巴〕國衰弱。秦惠文王與巴、蜀為好。蜀王弟苴〔侯〕私親於巴。巴蜀世戰爭,周慎王五年,蜀王伐苴。【侯】苴侯奔巴。巴為求救於秦。秦惠文王遣張儀司馬錯救苴、巴。遂伐蜀,滅之。儀貪巴、苴之富,執王以歸。置巴、蜀、及漢中郡。分其地為〔四十〕一縣。儀城江州。司馬錯自巴涪水,取楚商於地,為黔中郡。

【訳】
周の顕王の時、【楚】〔巴〕国は衰えた。秦の恵文王は巴・蜀と友好を結んだ。蜀王の弟の苴〔侯〕は個人的に巴と親しかった。巴と蜀は代々戦争をし、周の慎王の五年に蜀王が苴【侯】を伐った。苴侯は巴に出奔した。巴は苴侯のために秦に救援を求めた。秦の恵文王は張儀司馬錯を派遣して苴と巴を救い、そして蜀を伐って滅ぼした。張儀は巴・苴の富を貪り、王を捉えて帰った。秦は巴郡、蜀郡、および漢中郡を設置し、その地を〔四十〕県に分けた。張儀は江州に城を築き、司馬錯は巴水・涪水から楚と商を取りけん中郡とした。

五、

【原文】
秦昭襄王時,白虎為害,自【秦】〔黔〕、蜀、巴、漢患之。秦王乃重募國中:「有能煞虎者邑萬家,金帛稱之。」於是夷朐忍廖仲、藥何、射虎秦精等乃作白竹弩於高樓上,射虎。中頭三節。白虎常從羣虎,瞋恚,盡搏煞羣虎,大呴而死。秦王嘉之【白】〔曰〕:「虎歷四郡,害千二百人。一朝患除,功莫大焉。」欲如約,嫌其夷人。乃刻石為盟要:復夷人頃田不租,十妻不算;傷人者,論;煞人雇死,倓錢盟曰:「秦犯夷,輸黃龍一雙。夷犯秦,輸清酒一鍾。」夷人安之。漢興,亦從高祖定亂,有功。高祖因復之,專以射【白】虎為事。戶歲出賨錢口四十。故世號白虎復夷。一曰板楯蠻。今所謂弜頭虎子者也。

【訳】
秦の昭襄王の時、白虎が害をなし、【秦】〔黔〕、蜀、巴、漢は困った。秦王は国中に「虎を殺すことができた者には万戸の封地と金帛を与える」とねんごろに募集した。そこで夷のきょう忍の廖仲薬、何射虎、秦精らが白竹の弩を高楼の上に設置し虎を射た。白虎の頭に矢が三本あたった。白虎はいつも虎の群れをしたがえていたが、怒って群れの虎たちをすべて打ち殺し、大声で吠えて死んだ。秦王はこれを喜びこう言った「虎は四つの郡を経て千二百人を害してきた。いま災いが除かれ、これに勝る功はない」と。王は約束通りの処遇をしたかったが彼らが夷であることに難を覚えた。そこで石に文字を刻んで次のような盟約を立てた。今後夷人の田には租税を課さない、妻十人までは数えない、人を傷つけた者についてはその罪を論じ、人を殺した者は死刑とする、と。倓銭は盟してこう言った「秦が夷を侵犯すれば黄龍一対を納め、夷が秦を侵犯すれば清酒一壺を納める」と。夷人はこれに納得した。漢が興ると高祖に従い乱を平定するのに功があった。この功によって高祖はこれを復活させ、【白】虎を射ることに従事させ、年にそう銭四十を納めさせた。ゆえに世に白虎復夷と呼ばれ、また板楯蛮ともいわれる。今のいわゆるきょう頭虎子である。

【原文】
漢高帝滅秦,為漢王,王巴、蜀。閬中人范目,有恩信方略,知帝必定天下,說帝,為募發賨民,要與共定秦。秦地既定,封目為長安建章鄉侯。帝將討關東,賨民皆思歸;帝嘉其功而難傷其意,遂聽還巴。謂目曰:「富貴不歸故鄉,如衣繡夜行耳。」徙封閬中慈鄉侯。目固辭。乃封渡沔【縣】侯。故世謂:「〔三秦〕亡【秦】,范三侯」也。目復〔請〕除民羅、朴、昝、鄂、度、夕、龔七姓不供租賦。〉閬中有渝水。賨民多居水左右,天性勁勇;初為漢前鋒,陷陣,銳氣喜舞。帝善之,曰:「此武王伐紂之歌也。」乃令樂人習學之。今所謂《巴渝舞》也。
天下既定,高帝乃分巴、〔蜀〕置廣漢郡。孝武帝又兩割置犍為郡。故世曰「分巴割蜀,以成犍、廣」也。

【訳】
漢の高祖が秦を滅ぼし漢王となり、巴・蜀の王となった。閬中の人の范目は恩義信義があり先への見通しもある人で、高祖が必ず天下を平定するだろうと考え高祖を説得し、賨の民を募って徴発し、ともに秦を平定するための戦力とした。秦の地が平定されると、高祖は范目を長安建章郷侯とした。高祖が関東を討とうとする際、賨の民はみな帰りたいと思った。高祖は彼らの功に喜んでおり彼らの意に背くことはしがたく思ったため、彼らが巴に帰ることを聞き入れた。范目にこう言った「富貴を得たのに故郷に帰らないことは錦繡を着て夜に出かけるようなものだからな」と。高祖は范目を閬中慈郷侯に転封しようとしたが范目が固辞したため、渡沔【県】侯に封じた。ゆえに世にこう言う「〔三秦〕【秦】が亡んで范が三侯を得た」と。范目はまた羅、朴、昝、鄂、度、夕、龔の七姓の租賦を免じるよう高祖に請った。閬中に水があり、賨の民は川の左右に多く住んでいる。天性は強靭で勇ましく、はじめに漢の前鋒となり、陣を陥れ、意気揚々と喜び舞った。高祖はこれをよしとして言った「これは武王が紂を伐った歌だ」と。そうして楽人にこれを習得させたのが今のいわゆる「巴渝舞」である。
天下が平定されると、高祖は巴、〔蜀〕を分けて広漢郡を置いた。武帝もまた二分割して犍為郡を置いた。ゆえに世にこう言う「巴を分け蜀を割き犍・広となる」と。

六、

【原文】
自時厥後,五教雍和,秀茂挺逸。英偉既多,而風謠旁作。故朝廷有忠貞盡節之臣,鄉黨有主文歌詠之音。巴郡譙君黃,仕成哀之世,為諫議大夫。數進忠言。後違避王莽。又不仕公孫述。述怒,遣使賚藥酒以懼之。君黃笑曰:「吾不省藥乎?」其子瑛,納錢八百萬,得免。國人作詩曰:「肅肅清節士,執德寔固貞。違惡以授命,沒世遺令聲。」
巴郡陳紀山,為漢司隸校尉,嚴明正直。西虜獻眩,王庭試之,分公卿以為嬉。紀山獨不視。京師稱之。巴人歌曰:「築室載直梁,國人以貞真。邪娛不揚目,枉行不動身。奸軌辟乎遠,理義協乎民。」
巴郡嚴王思,為揚州刺史,惠愛在民。每當遷官,吏民塞路攀轅,詔遂留之。居官十八年卒,百姓若喪考妣。義送者賚錢百萬,欲以贍王思家。其子徐州刺史〔羽〕不受。送吏義崇不忍持還,乃散以為食,食行客。巴郡太守汝南應季先善而美之,乃作詩曰:「乘彼西漢,潭潭其淵。君子愷悌,作民二親。沒世遺愛,式鏡後人。」

【訳】
その後、五教はむつまじく人物は優れ、英雄偉人が多くあらわれ、土地に根ざした歌もあまねく作られた。ゆえに朝廷には忠貞で節を極めた臣があり、さとには喩えた詩歌がある。巴郡の譙君黄は成帝・哀帝の世に仕官し諫議大夫となり、しばしば忠言をした。後に王莽に背き、また公孫述にも仕えなかった。公孫述は怒り、使者に毒酒を持って行かせて譙君黄を脅した。君黃は笑って言った「毒薬をさける私ではない」息子の瑛が八百万銭を納めて公孫述の追求を免れた。国の人はこういう詩を作った「蕭蕭清節の士はかたくなに徳に則り、悪にそむくことに命をかけ、没後にも声望を残した」
巴郡の陳紀山は漢の司隸校尉となり、公明で剛直であった。西方の異民族が幻術士を献上してきて王庭で実演してみせた時、高官たちは喜んで見ていたが紀山だけは見なかった。都ではこの態度を称賛した。巴の人はこう歌った「建物を築くには真っ直ぐな梁を載せるのがよいし、国人は貞真であるのがよい。よこしまな娯楽には目をくれず、よこしまな行いには身を動かさない。道理に背いたことから遠ざかり、理義で民を助ける」
巴郡の厳王思は揚州刺史となり、民に恵愛を注いだ。官職を移るたびに下吏や民は路を塞いで馬車のながえにすがりつくので、とうとう詔がでて残留させられた。官につくこと十八年で失くなり、百姓たみくさは母親を亡くしたかのように哀悼した。葬式に参加した人が百万銭を王思の家に寄付しようとしたが息子で徐州刺史〔の羽〕は受け取らなかった。送った人は持ち帰るのに忍びず、その銭で食事を用意し客に振る舞った。巴郡太守の汝南の応季先はこれを美談だと思い、詩をなした「かの西漢水に乗るや、潭潭たりその淵。君子のおだやかな人柄は民に親のごとく慕われ、没後にも愛を残し後の人の鏡となっている」

【原文】
漢安帝時,巴郡太守連失道。國人風之曰:「明明上天,下土是觀。帝選元后,求定民安。孰可不念,禍福由人。願君奉詔,惟德日親。」永初中,廣漢、漢中羌反,虐及巴郡。有馬妙祈妻義,王元憒妻姬,趙蔓君妻華〉夙喪夫,執共姜之節,守一醮之禮,號曰「三貞」。遭亂兵迫匿,懼見拘辱,三人同時自沈於西漢水而沒。死,有黃鳥鳴其亡處,徘徊焉。國人傷之,乃作詩曰:「關關黃鳥,爰集於樹。窈窕淑女,是繡是黼。惟彼繡黼,其心匪石。嗟爾臨川,邈不可獲!」永建中,泰山吳資元約為郡守,屢獲豐年。民歌之曰:「習習晨風動,澍雨潤乎苗。我后卹時務,我民以優饒。」及資遷去,民人思慕,又曰:「望遠忽不見。惆悵嘗徘徊。恩澤實難忘,悠悠心永懷。」

【訳】
漢の安帝の時、巴郡太守があいついで道理に外れた。国人はこう風刺した「明明たる上天は下土を観る。帝は元后を選び民を安んずるを求める。禍福は人によるものだ。どうか詔を奉じて徳に親しむことを思ってくれ」
永初年間に広漢、漢中の羌がそむき、害が巴郡に及んだ。馬妙祈の妻の義、王元かいの妻の姫、趙蔓君の妻の華は早くに夫を失い、共姜の節と一しょうの礼を守り(再婚しないこと)、「三貞」と号した。乱兵が彼女たちの隠れているところまで迫ってきたため、捕まって辱めを受けることをおそれて三人同時に西漢水に身を投げて死んだ。黄鶯がその亡くなった場所を鳴いて徘徊した。国人はこれを傷んで詩をなした「関関たる黄鳥は樹に集まり、窈窕たる淑女は繡を纏う。かの繡の心は鉄石であった。川に臨んでも遥かで捕らえられない」
永建年間、泰山の呉資元約が郡守となり、たびたび豊年となった。民はこう歌った「そよそよと夜明けの風は動き時雨は苗を潤す。のちの者はその時の務めを気にかけるだろうが今の民は豊かである」呉資が帰る時になると民は思慕して言った「遥かに見送ったがふと見えなくなり、なげき悲しんで徘徊する。恩沢はまことに忘れがたく、いつまでも心に残る」

【原文】
桓帝時,河南李盛仲和為郡守,貪財重賦。國人刺之曰:「狗吠何諠諠,有吏來在門。披衣出門應,府記欲得錢。語窮乞請期,吏怒反見尤。旋步顧家中,家中無可【為】與。思往從鄰貸,鄰人已言匱。錢錢何難得,令我獨憔悴!」
漢末政衰,牧守自擅,民人思治,作詩曰:「混混濁沼魚,習習激清流。溫溫亂國民,業業仰前脩。」其德操、仁義、文學、政幹,若洛下閎、任文公、馮鴻卿、龐宣孟、玄文和、趙溫柔、龔升侯、楊文義等,播名立事,言行表世者,不勝次載【者】也。

【訳】
桓帝の時、河南の李盛仲和が郡守となり、財を貪り重い賦税を課した。国人はこう風刺した「犬がやかましく吠えている。官吏が門前に来たからだ。服を来て門に出て応対すると、銭を出せという役所からの令状である。困窮しているから待ってくれと言えば、官吏は怒ってよけいに責めてくる。家の中へ戻って見てみれば、差し出せるような物はない。隣から借りようとすれば、鄰人も乏しいと言う。銭よ銭よ、なぜかくも得難く私を憔悴させるのか」
漢の末には政は衰え、牧守(地方長官)は専擅していた。民は治を思って詩をなした「混混として沼の魚は濁り、習習として清流は激す。温温として国民は乱れ、業業として前脩(昔の賢人)を仰ぐ」
徳操、仁義、文学、政治において、洛下閎、任文公、馮鴻卿、龐宣孟、玄文和、趙温柔、龔升侯、楊文義らのように名をあげ功績を立て言行が世に現れた者は記載しきれない。

七、

【原文】
孝安帝【元】〔永〕初三年,州羌入漢中,殺太守董炳,擾動巴中。中郎將尹就討之,〔連年〕不克。益州諸郡皆起兵禦之。三府舉廣漢王堂為巴郡太守。撥亂致治,進賢達士。貢孝子嚴永,隱士黃錯,名儒陳髦,俊士張璊,皆至大位。益州刺史張喬,表其尤異。徙右扶風。民為立祠。

【訳】
安帝の永初三年、州の羌が漢中に入り太守董へいを殺し、巴中を騒乱させた。中郎将の尹就が討伐にあたったが〔連年〕勝ちを得なかった。益州の諸郡はみな兵を起こして防衛した。官庁が広漢の王堂を推挙し巴郡太守とすると乱は治まった。賢者を進め士を栄達させ、孝子厳永、隠士黄さく、名儒陳ぼう、俊士張ぼんを推挙し、みな大位に至った。益州刺史張喬は珍しい外見をしていた。右扶風に移り、民は張喬のために祠を立てた。

【原文】
桓帝并州刺史泰山但望【字】伯闔為巴郡太守。懃卹民隱。郡文學掾宕渠趙芬,掾弘農馮尤,墊江龔榮、王祈、李溫,臨江嚴就、胡良、文愷,安漢陳禧,閬中黃閶,江州【毋】母成、陽譽、喬就、張紹、牟存、平直等,詣望自訟曰:「郡境廣遠,千里給吏。兼將人從,冬往夏還。夏單冬複。惟踰時之役,懷怨曠之思。其【昏】憂喪吉凶,不得相見。解緩補綻,下至薪菜之物,無不躬買於市。富者財得自供。貧者無以自久。是以清儉,夭枉不聞。加以水陸艱難,山有猛禽;思迫期會,隕身江河,投死虎口。咨嗟之歎,歷世所苦。天之應感,乃遭明府,欲為更新。童兒匹婦,懽喜相賀:『將去遠就近,釋危蒙安。』縣無數十,人無遠邇,恩加未生,澤及來世。巍巍之功,勒於金石。乞以文書付計掾史。人鬼同符,必獲嘉報。芬等幸甚。」望深納之。郡戶曹史枳白望曰:「芬等前後百餘人,歷政訟訴,未蒙感悟。明府運機布政,稽當皇極。為民庶請命救患,德合天地,澤潤河海。開闢以來,今遇慈父。經曰:『奕奕梁山,惟禹甸之。有倬其道,韓侯受命。』比隆等盛,於斯為美。」

【訳】
桓帝并州刺史の泰山のたん望【字】伯こうを巴郡太守とした。但望は民の苦しみを思いやった。郡の文学掾の宕渠とうきょの趙芬、弘農の馮尤、墊江てんこうきょう栄、王祈、李温、臨江の厳就、胡良、文愷,安漢の陳禧、閬中の黄閶、江州の【毋】母成、陽誉、喬就、張紹、牟存、平直らは参詣してこう訴えた「郡の境界は広く、官吏は千里ごとです。人を動員するには冬に行き夏に帰還するもので、夏は単衣、冬は裏のついた服ですが、期限を超えた使役では夫婦が離れ離れで安否も分からず会えないという恨みを抱かせることになります。ほころびが修復されるのもゆるやかで、下々は生活必需品を市で買うのに困らない者はありません。富者はやっていけますが貧者はやっていけません。このため清廉な者は早死にしてしまい世に出ることもありません。加えて水陸の地勢も険しく、山には猛獣や猛禽がいます。招集を迫れば江河に落ちたり虎に食べられて死ぬこともあるでしょう。昔から嘆き苦しむところです。天が人々の思いに感応して長官さま(但望)を遣わせて下さり、この現状を変えさせようと欲しておられます。道理も知らぬ女子供でさえも喜び祝い合っています『遠きを去って近きにつき、危険を去って安全につく』と。県に数十なく、人に遠近なく、恩は加わっていまだ生じず、恵みは来世に及び、巍巍たる功は金石に刻まれます。文書を計掾史に発して下さい。生者も死者も相合し、必ず嘉報を得ることでしょう。そうなりましたら芬らは幸甚でございます」但望は深く聞き入れた。郡の戸曹史は但望にこう言った「芬らに前後すること百人あまりが昔から訴えていましたが、納得されることはありませんでした。長官さまが機をめぐらせ政をしくやり方はいにしえの帝王の天下を納める法則にあてはまっています。民草の命を請い患を救う徳は天地に合しており、恩沢は河海を潤しています。天地開闢以来、いま慈父に会うことができました。経典にこうあります『奕奕たる梁山は禹が治めた山、有たくたるその道は韓侯が命を受けた道』と。この隆盛にも比肩する美しいことです」

【原文】
永興二年,三月甲午,望上疏曰:「謹按《巴郡圖經》境界南北四千,東西五千,周萬餘里。屬縣十四。鹽鐵五官,各有丞史。戶四十六萬四千七百八十。口百八十七萬五千五百三十五。遠縣去郡千二百至千五百里。鄉亭去縣,或三四百,或及千里。土界遐遠,令尉不能窮詰姦凶。時有賊發,督郵追案,十日乃到。賊已遠逃,蹤跡【滅】絕〔滅〕。罪錄逮捕,證驗文書,詰訊,即從春至冬,不能究訖。繩憲未加,或遇德令。是以賊盜公行,姦宄不絕。〔郡掾龔〕榮等,及隴西太守馮含、上谷太守陳弘說:往者,至有刼,閬中令楊殷、終津侯姜昊,傷尉蘇鴻、彭亭侯孫魯、雍亭侯陳已、殷侯樂普。又有女服賊千有餘人,布散千里,不即發覺,謀成乃誅。其水陸覆害,煞郡掾枳謝盛、【塞】蹇威、張御,魚復令尹尋,主簿胡直,若此非一。給吏休謁,往還數千。閉囚須報,或有彈劾,動便歷年。吏坐踰科,恐失冬節,侵疑先死。如當移傳,不能待報,輒自刑戮。或長吏忿怒,冤枉弱民,欲赴訴郡官,每憚還往。太守行桑農,不到四縣。刺史行部,不到十縣。郡治江州,時有溫風。遙縣客吏,多有疾病。地勢剛險,皆重屋累居,數有火害。又不相容,結舫水居五百餘家。承三江之會,夏水漲盛,壞散顛溺,死者無數。而江州以東,濱江山險,其人半楚,〔精敏輕疾〕【姿態敦重】。墊江以西,土地平敞,〔姿態敦重〕【精敏輕疾】。上下殊俗,情性不同。敢欲分為二郡:一治臨江。一治安漢。各有桑麻丹漆,布帛魚池。鹽鐵足相供給。兩近京師。榮等自欲義出財帛,造立府寺。不費縣官,得百姓懽心。孝武以來,亦分吳蜀諸郡。聖德廣被,民物滋繁。增置郡土,釋民之勞,誠聖主之盛業也。臣雖貪大郡以自優【假】〔暇〕,不忍小民顒顒蔽隔,謹具以聞。」
朝議未許。遂不分郡。分郡之議,始於是矣。【哉】

【訳】
永興二年三月甲午、但望はこう上疏した「謹んで『巴郡図経』を按ずるに、境界は南北四千、東西五千、外周は一万余里。属県は十四。塩鉄五官にはそれぞれ丞史がおります。戸数は四十六万四千七百八十、口数は百八十七万五千五百三十五。遠県は郡を去ること千二百~千五百里。郷・亭の県を去ることあるいは三四百、あるいは千里に及びます。土地がはるかに遠く、県令や県尉は姦凶を追及することができません。賊が起こり督郵が事件を調べることがあっても、十日経って到着し、賊はすでに遠くへ逃げており、痕跡もありませんでした。逮捕をしても、文書を審査し尋問をし、春から冬に至っても究明が終わりません。いまだ縄をかけないうちに恩赦がでることもあります。これが賊や盗人が横行し悪党が絶えないゆえんです。〔郡掾の龔〕栄ら及び隴西太守の馮含、上谷太守の陳弘らは、歩けば強盗がいると言っています。閬中令の楊殷、終津侯の姜こう、傷尉の蘇鴻、彭亭侯の孫魯、雍亭侯の陳已、殷侯の楽普らのところには女服賊千余人がおり、千里に散っておりすぐには発覚せず、謀略を立ててやっと誅しました。その水陸の害で郡掾の枳謝盛、【塞】蹇威、張御、魚復令の尹尋、主簿の胡直が死に、こういったことは一度ではありません。休暇を請う謁見は往還数千です。収監を決めるのも弾劾するのも何年もかかります。官吏は職分を超え、冬至が来るのをおそれ疑義がありながらもまず死刑とします。罪人が移され伝えられる際には報告を待てず、勝手に死刑にします。ある長吏は腹立ちまぎれに弱民を無実の罪におとしていますが、民が郡官に訴えに行こうとしてもいつも往復の長さが障害になっています。郡太守が蚕桑や農業の政務に従事するのも四県にもいたりません。州刺史の巡察も十県にもいたりません。郡治の江州では時々温風が吹き、遠くの県から来た官吏は病気になることが多いです。地勢が険しいところではみな重なり合うように家を立てていますから、しばしば火災がおこります。また、相容れずに船を結び合わせて水の上で暮らす者が五百余家あります。三江の集まるところでは夏に増水し、壊れ覆って溺死する者が無数です。そして江州より東は川岸であり山は険しく、住人はなかば楚人〔で、すぐれて敏捷にして性急〕【風態が重々しい】です。てん江より西は土地は高くて平ら〔で、風態が重々しい〕【すぐれて敏捷にして性急】です。上下で風俗を異にし、情性は同じではありません。敢えてお願い申し上げます、臨江と安漢の二郡に分けて頂きたいです。それぞれ桑麻丹漆布帛魚池があり、塩鉄も供給に足ります。いずれも都に近いです。龔栄らは自主的に義によって財帛を出し府寺を建立したいと申し出ております。朝廷の出費なく民草を喜ばせることができます。武帝以来には呉蜀の諸郡を分けた例もあり、聖なる徳はあまねく広がり民も物も豊かとなっております。郡を増置して民の労を解消することはまことに聖主の盛業であります。臣は大郡でゆったりとした暮らしを貪っておりますものの、小民が隔てられていることに忍びず謹んで奏聞申し上げます」
朝議では許可は降りず、郡は分かれなかった。郡を分ける議論はここに始まったのである。

八、

【原文】
順桓之世,板楯數反。太守蜀郡趙溫,恩信降服。於是宕渠出九穗之禾,朐忍有連理之木。光和二年,板楯復叛,攻害三蜀、漢中,州郡連年苦之。天子欲大出軍。時征役疲弊。問益州計曹,考以方略。益州計曹掾程包對曰:「板楯七姓,以射【白】虎為業,立功先漢。本為義民。復除徭役,但出賨錢,口歲四十。其人勇敢能戰。昔羌數入漢中,郡縣破壞,不絕若線。後得板楯,來虜彌盡。號為神兵。羌人畏忌,傳語種輩,勿復南行。後建【寧】〔和〕二年,羌復入漢,牧守遑遑。賴板楯破之。若微板楯,則蜀、漢之民為左衽矣。前車騎將軍馮緄南征,雖授丹陽精兵,亦倚板楯。近益州之亂,朱龜以并涼勁卒討之,無功;太守李顒以板楯平之。忠功如此,本無惡心。長吏鄉亭,更賦至重;僕役過於奴婢,箠楚【降】隆於囚虜;至乃嫁妻賣子,或自剄割。陳寃州郡,牧守不理。去闕庭遙遠,不能自聞。含怨呼天,叩心窮谷。愁於賦役,困於刑酷,邑域相聚,以致叛戾。非有深謀至計,僭號不軌。但選明能牧守,益其資穀,安便賞募,從其利隟,自然安集。不煩征伐也。昔中郎將尹就伐羌,擾動益部。百姓諺云:「虜來尚可,尹將殺我!」就徵還後,羌自破退。如臣愚見權之,遣軍不如任之州郡。」
天子從之,遣太守曹謙,宣詔降赦。一朝清戢。

【訳】
順帝、桓帝の御世に板楯蛮がしばしば背いた。太守の蜀郡の趙温は恩と信によって降服させた。すると宕渠では九穂のいねが出て、きょう忍では連理の木がみつかった。光和二年に板楯蛮がまた背き、三蜀、漢中を攻めて害し、州郡は連年これに苦しんだ。天子は大々的に軍を発しようとしたが、兵役に疲弊している折であり、益州の計曹に問うて方略を考えさせた。益州の計曹掾の程包は答えて言った「板楯の七姓は【白】虎を射ることを功業としており、先漢に功を立てました。もとは義民です。それに報いるに徭役を免除し、銭は貢納させることとして、その額は口数あたり年に四十としました。人は勇敢でよく戦います。むかし羌がしばしば漢中に入り郡県を破壊し、線のごとく途切れることがありませんでした。のちに板楯蛮を得て、外敵は尽き、神兵と号しました。羌人はおそれ避け、もう南へ行くなと羌のあいだで語り伝えました。後の建【寧】〔和〕二年、羌がまた漢に入り、州郡の長官たちは恐慌し、板楯蛮を頼って羌を破らせました。もし板楯蛮がいなければ蜀、漢の民は異民族の着るような左前の服を着ることになっていたことでしょう。前の車騎将軍の馮緄が南征したさい、丹陽の精兵を授かったものの、板楯蛮にも頼りました。近くは益州の乱で朱亀が并州涼州の強兵で討伐にあたるも結果が出ず、太守の李顒が板楯蛮をもちいて乱を平らげました。忠功はかくのごとく、もとは悪い心はありません。大官たちの徴税がいたって重く、使役が奴隷よりもひどく、杖で殴ります。はなはだしきは妻を嫁に出し子を売り、あるいは自害をさせます。冤罪を州郡に訴えても長官たちは相手にせず、朝廷に行こうにも遥かに遠く、訴えることができません。怨嗟を含んで天に叫び、峡谷に胸を叩き、賦役に愁え、刑の酷さに苦しみ、村々で結集し謀反にいたっています。深謀至計があるわけではなく、下剋上をたくらんでいるわけでもありません。明晰で有能な地方長官を選び、資産穀物を増やしてやり、賞や招集を適切化し、利と情を従わせるだけで、自然に安定します。征伐の手間はいりません。むかし中郎将の尹就が羌の討伐を行い益部が擾乱したことがありました。人々はこういう諺を言いました「羌が来るのはまだいいが尹将には殺される」と。尹就が朝廷の命で帰還したあと羌は自滅して退きました。臣の愚見にて思案しますに、軍を派遣するより州郡に任せたほうがよろしいと存じます」
天子はこれに従い、太守曹謙を派遣し、赦免の勅を出し、すぐに終息した。

九、

【原文】
獻帝初平【元】〔六〕年,征東中郎將安漢趙穎建議分巴為二郡。穎欲得巴舊名,故白益州劉璋,以墊江以上為巴郡,江南龐羲為太守,治安漢。〔璋更〕以江州至臨江為永寧郡,朐忍至魚復為固陵郡,巴遂分矣。
建安六年,魚復蹇胤白璋,爭巴名。璋乃改永寧為巴郡,以固陵為巴東,徙羲為巴西太守。是為三巴。於是涪陵謝本白璋,求【以】〔分置〕丹興、漢髮二縣,〔以涪陵〕為郡。〔璋〕初以為巴東屬國。後遂為涪陵郡。

【訳】
献帝の初平【元】〔六〕年、征東中郎将の安漢の趙穎が巴を分割して二郡にすることを建議した。趙穎は巴の旧名を欲し、益州牧の劉璋に墊江より上を巴郡とするよう上申し、江南の龐羲を太守とし安漢を治めさせるようにした。〔劉璋は更に〕江州から臨江を永寧郡とし、朐忍から魚復を固陵郡とし、巴はついに分割された。
建安六年、魚復の蹇胤が当方に巴の名称が欲しいと劉璋に要望した。そこで劉璋は永寧を改めて巴郡とし、固陵を巴東とし、龐羲を巴西太守に転任させた。これで三巴となった。ここで涪陵の謝本が劉璋に上申し、〔分けて〕丹興、漢髮の二県〔を置き〕、〔涪陵を〕郡とするよう求めた。〔劉璋は〕はじめに巴東を属国とし、ついには涪陵郡とした。

郡県

巴郡

十、

【原文】
〔巴郡,舊屬縣十四。郡〕分後,屬縣七,戶二萬。去洛三千七百八十五里。東接朐忍。西接【蔣】符縣。南接涪陵。北接安漢、德陽。巴子時雖都江州,或治墊江,或治平都。後治閬中。其先王陵墓多在枳。其畜牧在沮,今東突硤下畜沮是也。又立市於龜亭北岸,今新市里是也。其郡東枳,有明月硤,廣德嶼,〔及雞鳴硤〕。故巴亦有三硤。巴楚數相攻伐,故置扞關、陽關及沔關。漢世,郡治江州巴水北,有甘𡉙張、吳、何、王本作柑。古今字。}}橘官,今北府城是也。後乃【遷】還南城。
劉先主初以江夏費瓘為太守,領江州都督。後都護李嚴更城大城,周迴十六里。欲穿城後山,自汶江通水入巴江,使城為州。置巴州。丞相諸葛亮不許。亮將北征,召嚴漢中。故穿山不逮。然造蒼龍、白虎門。別郡縣倉皆有城。嚴子豐代為都督。豐解後,梓潼李福為都督。延熙中,車騎將軍鄧芝為都督,治陽關。十七年,省平都、樂城、常安。
咸熙元年,但四縣。以鎮西參軍隴西怡思和為太守,〔領〕二部守軍。

【訳】
〔巴郡には古くは十四県が属していた。郡が〕分かれて後は属県七、戸数二万である。洛陽を去ること三千七百八十五里。東は朐忍に接し、西は【蒋】符県に接し、南は涪陵に接し、北は安漢、德陽に接する。巴子は時には江州を都としたが、ある時は墊江を治所とし、あるときは平都を治所とし、後には閬中を治所とした。先王の陵墓は多くはにある。低湿地帯に畜牧する。いま東突硤の低湿地帯で畜牧しているのがこれである。また亀亭の北岸に市を立てる。いまの新市里がこれである。郡の東枳には明月硤、広徳しょ、〔および雞鳴硤〕がある。ゆえに巴にもまた三硤があるのである。巴と楚はしばしば攻撃し合ってきたため、かん関、陽関および沔関がある。漢の御世には郡治は江州の巴水の北にあり、甘𡉙張氏、呉氏、何氏、王氏が橘官――もとは柑と書く。古今字(変遷による異体字)――である。いまの北府城がこれである。後に南城に移った。
劉先主(劉備)ははじめ江夏の費かんを太守・領江州都督とした。のちに都護の李厳が城を大きくし、外周十六里になった。城のうしろの山をうがとうと思い、汶江から巴江に水を通して城を洲として巴州を置こうとしたが、丞相の諸葛亮は許可しなかった。諸葛亮が北征するにあたり李厳を漢中に呼んだため、山をうがつにはいたらなかったが、蒼龍門、白虎門を作った。また、郡県の建物にはみな城がある。李厳の子の李豊が李厳に代わって都督となった。李豊が任を解かれた後は梓潼も李福が都督となった。延熙年間には車騎将軍の鄧芝が都督となり、陽関に治所を置いた。十七年に平都、楽城、常安を廃した。
咸熙元年にはただ四県となった。鎮西参軍の隴西の思和が太守となり、二部の守軍〔を管轄した〕。

十一、

【原文】
江州縣  郡治。塗山,有禹王祠及塗后祠。北水有銘書,詞云:「漢初,犍為張君為太守,忽得仙道,從此升度。」今民曰張府君祠。縣下有清水穴。巴人以此水為粉,則膏暉鮮芳;貢粉京師,因名粉水。故世謂「江州墮【休】〔林〕粉」也。有荔支園。至熟,二千石常設廚膳,命士大夫共會樹下食之。縣北有稻田,出御米;陂池出蒲蒻藺席。其冠族有波、鈆、【毋】〔母〕、謝、然、𢣏、楊、白、上官、程、常,世有大官也。

【訳】
江州県  郡治である。塗山には禹王祠および塗后祠がある。北水に銘書があり、詞にこうある「漢のはじめ、犍為の張君が太守となり、忽然と仙道を得てここから昇仙した」と。いま民が張府君祠と呼ぶところである。県下には清水が湧き出る穴があり、巴人はこの水で粉を作る。これを使えば脂は輝き鮮やかで芳しい。粉を都に献上しているため粉水と言う。ゆえに世に「江州堕【休】〔林〕粉」と言う。ライチ園があり、ライチが熟すと郡太守はいつも食膳を用意し、士大夫らとともに会食をして樹の下でライチを食す。県の北には稻田があり、朝廷に献上する米を産する。陂池ではガマやイグサで編んだむしろを産する。名族には波、鈆、【毋】〔母〕、謝、然、𢣏、楊、白、上官、程、常があり、代々大官を出している。

【原文】
枳縣  郡東四百里,治涪陵水會。土地确瘠。時多人士。有章、常、連、黎、牟、陽,郡冠首也。
臨江縣  枳東四百里。接朐忍。有鹽官,在監塗二溪,一郡所仰。其豪門亦家有鹽井。【又】嚴、甘、文、楊、杜為大姓。晉初,文立實作常伯,納言左右。楊宗符稱武【隆】〔陵〕。〔甘寧輕俠殺〕人,在吳為孫氏虎臣也。
平都縣  蜀延熙時省。大姓殷、呂、蔡氏。

【訳】
枳県  郡の東四百里、涪陵の水が合わさるところに治所がある。土地は石が多く痩せている。時に人士を多く出す。章、常、連、黎、牟、陽が郡の代表格である。
臨江県  枳の東四百里。朐忍に接している。塩官がおり、塗の二溪を監督している。一郡の仰ぐところである。豪族の家にもまた塩井がある。【また】厳、甘、文、楊、杜が大姓である。晋のはじめ、文立が常伯となり、左右の言を聞き入れた。楊宗符が武【隆】〔陵〕と称した。〔甘寧は軽侠で〕人〔を殺し〕、呉で孫氏の虎臣となった。
平都県  蜀の延熙年間に廃止された。大姓には殷、呂、蔡氏がある。

【原文】
墊江縣  郡西北【中】〔內〕四百里。有桑蠶牛馬。漢時,龔榮以俊才為荊州刺史。後有龔揚、趙敏,以令德為巴郡太守。淳于長寧雅有美貌。黎、夏、杜,皆大姓也。
樂城縣  在西州江三百里。延熙十七年省。
常安縣  亦省。

【訳】
墊江県  郡の西北【中】〔內〕四百里。蚕桑牛馬がある。漢の頃、龔栄が俊才によって荊州刺史となった。後には龔揚、趙敏がおり、令徳によって巴郡太守となった。淳于長はゆったりとして雅で美貌があった。黎、夏、杜はみな大姓である。
楽城県  西州江の三百里にある。延熙十七年に廃止された。
常安県  ここも廃止された。

巴東郡

十二、

【原文】
巴東郡,先主入益州,改為江關都尉。建安二十一年,以朐忍、魚復、〔漢豐〕、羊渠,及宜都之巫、北井六縣為固陵郡。武陵康立為太守,〔治故陵溪會〕。章武元年,朐忍徐【惠】〔慮〕、魚復蹇機,以失巴名,上表自訟。先主聽復為巴東。南郡輔匡為太守。先主征吳,於夷道還,薨斯郡。以尚書令李嚴為都督,造設圍戍。嚴還江州,征西將軍汝南陳到為都督。到卒官,以征北大將軍南陽宗預為都督。預還,內領軍襄陽羅獻為代。蜀平,獻仍其任,拜淩江將軍,領武陵太守。

【訳】
巴東郡は先主が益州に入って江関都尉の管轄になった。建安二十一年、朐忍、魚復、〔漢豊〕、羊渠、および宜都の巫、北井の六県が固陵郡となった。武陵の康立が太守となって〔もとの陵溪の合流点を治めた〕。章武元年、朐忍の徐【恵】〔慮〕と魚復の蹇機が巴の名称が抜けてしまったことについて上表して訴えた。先主はこれを聞いてまた巴東に戻した。南郡の輔匡が太守となった。先主が呉の征伐に行き、夷道に帰還してその郡で薨去した。尚書令の李厳を都督とし、防御施設を増強した。李厳が江州に帰還すると征西将軍の汝南の陳到が都督となった。陳到が在任中に死去すると、征北大将軍の南陽の宗預を都督とした。宗預が帰還すると內領軍の襄陽の羅献(羅憲)が代わった。蜀が晋に平定されても羅献は依然としてその任につき、淩江将軍領武陵太守を拝命した。

【原文】
泰始二年,吳大將步闡、唐咨攻獻,獻保城。咨西侵至朐忍。故蜀尚書郎巴郡楊宗告急於洛,未還,獻出擊闡,大破之。〔闡〕、咨退,獻遷監軍、假節、安南將軍,封西鄂侯。入朝,加錫御蓋朝服。吳武陵太守孫恢寇南浦,安蠻護軍楊宗討之,退走。〔獻〕因表以宗為武陵太守,住南浦;誘卹武陵蠻夷,得三縣初附民。獻卒,以犍為太守天水楊攸為監軍。攸遷涼州刺史,朝議以唐彬及宗為代。【晉】武帝問散騎常侍文立曰:「彬、宗孰可用?」立對曰:「彬、宗俱立事績,在西不可失者。然宗才誠佳,有酒嗜。彬亦其人,性在財欲。惟陛下裁之。」帝曰:「財欲可足。酒嗜難改。」遂用彬為監軍。加廣武將軍。

【訳】
泰始二年、呉の大将の歩せんと唐咨が羅献を攻めた。羅献は城を保った。唐咨は西に侵攻して朐忍に至った。もと蜀の尚書郎の巴郡の楊宗が洛陽に急を告げに行ったが、楊宗が戻ってこないうちに羅献は撃って出て歩闡を大いに破った。〔歩闡〕、唐咨は撤退し、羅献は監軍、仮節、安南将軍となり、西鄂侯に封じられた。朝廷に入ると天子の御蓋と錫と朝服を与えられた。呉の武陵太守の孫恢は南浦を侵犯し、安蛮護軍の楊宗がこれを撃って敗走させた。〔羅献は〕このことによって上表して楊宗を武陵太守とし、南浦に滞在した。武陵の蛮夷を懐柔して三県を得てはじめて民とした。羅献が亡くなると犍為太守の天水の楊攸が監軍となった。楊攸が涼州刺史に移ると、朝議で唐彬と楊宗のいずれかを後任にしようという話になった。【晋の】武帝は散騎常侍の文立に「唐彬と楊宗のどちらを用うるべきか」とたずねた。文立はこう答えた「唐彬も楊宗もともに実績があり、西方には欠かせない人材です。しかし楊宗の才はまことによろしいものの、酒好きです。唐彬もまた人柄としては金銭欲があります。陛下のご裁下を」
帝は「金銭欲なら満たすことが可能だが酒好きは改めがたい」と言い、唐彬を監軍とし、広武将軍を加えた。

【原文】
迄吳平【巴東】後,省羊渠【置】〔入〕南浦。【晉】太康初,將巫、北井還建平,但五縣。去洛二千五百里。東接建平。南接武陵。西接巴郡。北接【房陵】〔上庸〕。〔其屬有〕奴、獽、夷、蜑之蠻【民】。

【訳】
呉が【巴東を】平定した後、羊渠を廃して南浦を【置いた】。【晋の】太康年間の初め、巫、北井を建平に戻し、ただ五県となった。洛陽を去ること二千五百里。東は建平に接し、南は武陵に接し、西は巴郡に接し、北は【房陵】〔上庸〕に接する。奴、獽、夷、蜑の蛮【民】〔が属している〕。

十三、

【原文】
魚復縣  郡治。公孫述更名白帝。章武二年,改曰永安。咸熙初復。有橘官,〔鹽泉〕。又有澤水神,天旱,鳴鼓於旁即雨也。〔巴楚相攻,故置江關,舊在〕赤〔甲城,後移在江南岸,對白帝城故基〕。

【訳】
魚復県  郡治である。公孫述が白帝と改名した。章武二年、永安と改めた。咸熙年間の初めにまた戻した。橘官〔塩泉〕がある。また水をめぐむ神がおり、旱魃のときに傍らで鼓を鳴らせば雨が降る。〔巴と楚が攻撃し合っていたため江関が置かれた。古くは〕赤〔甲城にあり、のちに長江の南岸に移された。白帝城のもとである〕。

【原文】
朐忍縣 郡西二百九十里。水道有東陽、下瞿數灘。山有大、小石城勢。〔故陵郡舊治,有巴鄉名酒〕、靈壽木〔橘圃〕、鹽井、靈龜。〔湯溪鹽井,粒大者方寸〕。咸熙元年,獻靈龜於相府。大姓扶、先、徐氏。漢時有扶徐,〔功在〕荊州,著【石】〔名〕《楚【訪】〔記〕》。〔其屬〕有弜頭白虎復夷者也。

【訳】
朐忍県 郡の西二百九十里にある。水の通るところとしては東陽、下瞿などいくつかの灘がある。山には大小の石城のような地形がある。〔ゆえに陵郡の古い治所であった。巴郷の名酒〕、霊寿木〔橘圃〕、塩井、霊亀がある。〔湯溪の塩井では粒の大きなものは一寸四方ほどである〕。咸熙元年、霊亀を丞相府に献上した。大姓には扶氏、先氏、徐氏がある。漢の時に扶氏と徐氏は荊州〔で功があり〕、『楚【訪】〔記〕』に名が記された。きょう頭白虎復夷〔が属している〕。

【原文】
漢豐縣  建安二十一年置。在郡西北彭溪【源】〔原〕。
南浦縣  郡南三百里。晉初置〔武陵郡〕,主夷。
郡與楚接,人多勁勇,少文學,有將帥材。
〔羊渠縣  漢末置。平吳後省入南浦。〕
〔巫,北井  還屬建平郡。〕

【訳】
漢豊県  建安二十一年に置かれた。郡の西北、彭溪【の源】〔原〕である。
南浦県  郡の南三百里。晋の初めに〔武陵郡〕を置く。主に夷である。
郡は楚と接しており、人の多くは強靭で勇ましく、文学は少ない。将帥の人材がある。
〔羊渠県  漢の末に置く。呉が平定されたのち廃され南浦に入れられる。〕
〔巫、北井  建平郡に戻された。〕

涪陵郡

十四、

【原文】
涪陵郡,巴之南鄙。從枳南入,【析】〔折〕丹涪水,本與楚商於之地接。秦將司馬錯【由之】取楚商於地為黔中郡也。漢【後】〔興〕恆有都尉守之。舊屬縣五。去洛五千一百七十里。東接巴東。南接武陵。西接牂柯。北接巴郡。土地山險、水灘。人〔多〕戇勇,多獽蜑之民。縣邑阿黨,鬬訟必死。【無蠶桑】少文學。惟出茶、丹、漆、蜜、蠟漢時,赤甲軍常取其民。蜀丞相亮亦發其勁卒三千人為連弩士,遂移家漢中。延熙十三年,大姓徐巨反。車騎將軍鄧芝討平之。見玄猿緣其山,芝性好弩,手自射猿,中之。猿子拔其箭,卷木葉塞其創。芝嘆曰:「嘻!吾傷物之性,其將死矣。」乃移其豪徐、藺、謝、范五千家於蜀,為獵射官。分羸弱配督將韓、蔣等,名為助郡軍;遂世掌部曲,為大姓。晉初,移弩士於馮翊蓮勺。其人性質直,雖徙他所,風俗不變。故迄今【有】〔在〕蜀、漢、關中、涪陵,其為軍在南方者猶存。山有大龜,其甲可卜;其緣可作义,世號靈义。

【訳】
涪陵郡は巴の南の辺境である。枳に従って南に入り、丹涪水〔を折れる〕。もとは楚の商於の地と接していた。秦の将司馬錯は【ここによって】楚の商於の地を取りけん中郡とした。漢【の後に】〔発展し〕つねに都尉がここを守備した。ふるくは属県は五つであった。洛陽を去ること五千一百七十里、東は巴東に接し、南は武陵に接し、西は牂柯に接し、北は巴郡に接する。土地は山が険しく水流が急である。人は〔多くは〕愚かで勇を好み、多くはじょう族やたん族の民である。県邑は人々の顔色を伺っており、訴訟では必ず死人がでる。【蚕桑はなく】文学は少ない。ただ茶、丹、漆、蜜、蠟を産する。漢の時、赤甲軍には常にここの民を採用した。蜀の丞相諸葛亮もまたここの強卒三千人を徴発して連弩士とし、やがて彼らの家を漢中に移した。延熙十三年、大姓の徐巨が反乱を起こし、車騎将軍の鄧芝がこれを討ち平らげた。鄧芝は黒い猿が山に沿っているのを見たとき、彼は弩を好んだので自ら猿を射て命中させた。猿の子がその矢を抜き、木の葉を巻いて矢傷を塞いだ。鄧芝は嘆じて言った「ああ、私は物のあるべきありかたを傷つけてしまった。私は死ぬだろう」そして豪族の徐氏、りん氏、謝氏、范氏の五千家を蜀に移し、獵射官とした。弱い者を分けて督将に韓氏、蒋氏らを配し、助郡軍と名付けた。やがて世襲の部曲となり、大姓となった。晋のはじめ、弩士を馮翊ひょうよく蓮勺れんしゃくに移した。その人情は質実率直で、よその土地へ移っても風俗は変わらなかった。ゆえに今でも蜀、漢、関中、涪陵には南方の軍がまだある。山には大亀がおり、その甲羅で占卜ができ、その縁で義をなすことができる。世に霊義と号する。

十五、

【原文】
涪陵縣  郡治。
丹興縣 蜀時省。山出名丹。
漢平縣  延熙十三年置。
萬寧縣  孝靈帝時置,本名永寧。
漢髮縣  有鹽井。【諸】縣北有獽、蜑,又有蟾夷也。
〔漢葭縣  省入涪陵。〕

【訳】
涪陵県  郡治である。
丹興県  蜀の時に廃される。山から名丹が取れる。
漢平県  延熙十三年に置かれる。
万寧県  霊帝の時に置かれる。もとの名は永寧である。
漢髮県  塩井がある。【諸】県の北には獽族、蜑族、またせん夷がいる。
〔漢葭県  廃されて涪陵に入れられる。〕

巴西

十六、

【原文】
巴西郡,屬縣七。去洛二千八百一十五里。東接巴郡。南接〔廣漢〕。西接梓潼。北接【涼】〔漢中〕、西城。土地山原多平,有牛馬桑蠶。其人,自先漢以來,傀偉俶儻,冠冕三巴。及郡分後,叔布、榮始、周羣父子、程公弘等,或學兼三才,或精秀奇逸。其次,馬盛衡承伯,才藻清妙;龔德緒兄弟,英氣曄然;黃公衡應權通變;馬德信、王子均、勾孝興、張伯岐建功立事;劉二主之世,稱美荊楚。〔若〕乃先漢以來,〔范三侯〕、馮車騎、【范】〔馬〕鎮南,皆植斯鄉,故曰「巴有將,蜀有相」也。及晉,譙侯脩文於前,陳君煥炳於後,並遷雙固,倬羣穎世。甄在傳記,縉紳之徒,不勝次載焉。

【訳】
巴西郡 属県は七。洛陽を去ること二千八百一十五里。東は巴郡に接し、南は〔広漢〕に接し、西は梓潼に接し、北は【涼】〔漢中〕、西城に接する。土地は高原で平地が多い。牛馬桑蚕がある。人は先漢以来、三巴で最も飛び抜けている。郡が分かれて後、叔布、栄始、周羣父子、程公弘ら、学に三才を兼ねた者や精秀奇逸な者が出た。その次には清妙な詩文の才の馬盛衡承伯、英気輝く龔德緒兄弟、機に応じ変に通じる黃公衡が出た。馬徳信、王子均、勾孝興、張伯岐は功を建てた。劉二主の世には荊楚を称美していたが、先漢以来の〔范三侯〕、馮車騎、【范】〔馬〕鎮南らはみな巴西の郷に生まれたのである。ゆえに「巴に将あり、蜀に相あり」と言うのである。晋になり、文章で譙周が前に、陳寿が後に才を輝かせ、この二人が並んで世に飛び抜けており、伝記で評価する際にはこの次に載せるに足る士大夫はいないのである。

十七、

【原文】
閬中縣  郡治。有彭池大澤。名山靈臺,見文緯書讖。大姓有三狐、五馬,蒲、趙、任、黃、嚴也。
【南】〔西〕充國縣  〔故充國,〕和帝時置。有鹽井。大姓侯、譙氏。〔漢末分置南充國時改名。〕
〔南充國縣  漢末置。大姓張氏。〕
安漢縣  號出人士。大姓陳、范、閻、趙。
平州縣  〔太康元年置。〕
其二縣為郡。

【訳】
閬中県  郡治である。彭池大沢、名山霊台があり、緯讖の書が現れる。大姓には三狐、五馬があり、蒲、趙、任、黃、厳である。
【南】〔西〕充国県  〔もとの充国である。〕和帝の時に置かれる。塩井がある。大姓には侯氏、譙氏がある。〔漢末に充国を分けて南充国を置いた時に改名した。〕
〔南充国県  漢末に置かれた。大姓は張氏。〕
安漢県  人士を出す土地であると号している。大姓は陳、范、閻、趙。
平州県  〔太康元年に置かれる。〕
その二県を郡とする。

宕渠郡

十八、

【原文】
宕渠郡,【延熙中】〔蜀先主〕置。以廣漢王士為太守。郡建九年省。〔延熙中復置。尋又省〕永興元年,李雄復置。今遂為郡。長老言:「宕渠蓋為故賨國。今有賨城、盧城。」秦始皇時,有長人二十五丈見宕渠。秦史胡母敬曰:「是後五百年外,必有異人為大人者。」及雄之王,祖世出自宕渠,有識者皆以為應之。先漢以來,士女賢貞。縣民、車騎將軍馮緄、大司農玄賀、大鴻臚龐雄、桂陽太守李溫等,皆建功立事,有補於世。緄、溫各葬所在。常以三月,二子之靈還鄉里,水暴漲。郡縣吏民,莫不於水上祭之。其列女節義在《先賢志》。
宕渠縣  郡治。有鐵官。石蜜,山圖所採也。
漢昌縣  和帝時置。大姓勾氏。
宣漢縣  今省。

【訳】
宕渠郡は【延熙年間に】〔蜀の先主が〕置いた。広漢の王士を太守とした。郡が建って九年で廃された。〔延熙年間にまた置かれ、また廃された。〕永興元年に李雄がまた置き、今はついに郡となっている。長老はこう言う「思うに宕渠はもとはそう族の国であろう。今は賨城、盧城がある」と。秦の始皇帝の時、身長二十五丈の巨人が宕渠に現れた。秦の史官の胡母敬はこう言った「こののち五百年以上したら必ず異人で大人物となる者が現れるでしょう」と。李雄が王となるに及び、先祖が宕渠出身であることから、有識者はみなこのことを胡母敬の予言に呼応したものだと考えた。先漢以来、士女は賢貞である。県民には車騎将軍馮緄、大司農玄賀、大鴻臚龐雄、桂陽太守李温らがおり、みな功を立て世を輔弼した。馮緄、李温はそれぞれ亡くなった時にいた場所で葬られた。いつも三月に二人の霊を郷里に召喚すると水が暴れて漲れるため、郡県の吏民は水上で彼らを祭ることを欠かさない。当地の列女の節義は『先賢志』に記されている。
宕渠県  郡治である。鉄官がいる。石蜜があり、仙人の山図が採ったと言われるものである。
漢昌県  和帝の時に置かれる。大姓は勾氏。
宣漢県  今は廃されている。

十九、

【原文】
右巴國,凡分為五郡,二十三縣。

【訳】
右巴国 すべて分けて五郡となった。二十三県ある。

【原文】
譔曰:巴國,遠世則黃【炎】〔帝〕之支封;在周則宗姬之戚親;故於春秋,班侔秦楚,示甸衛也。若蔓子之忠烈,范目之果毅;風淳俗厚,世挺名將;斯乃江漢之含靈,山岳之精爽乎?觀其俗,足以知其敦壹矣。昔沙麓崩,卜偃言:「其後當有聖女興。」元城郭公謂王翁孺屬當其時。故有政君。李雄,宕渠之【斯】廝伍,略陽之黔首耳。起自流隸,君獲士民;其長人之魄,良有以也?

【訳】
譔にいわく、巴国は遠い世には黄【炎】〔帝〕が封じた地である。周の世には姫姓の宗家の姻戚であった。ゆえに春秋においては秦や楚と対等であり、離れた地にいる諸侯として振る舞っていた。 まん子の忠烈、范目の果毅にみられるような人情が厚く美しい風俗、世にひいでた名将、これは江漢の霊、山岳の魂を含むものではないだろうか。その風俗を見ればその篤厚さを知るに充分である。むかし沙麓山が崩れ、卜偃は「のちに聖女が興るであろう」と言った。元城の郭公は王翁孺がまさにその時に属すると言った。ゆえに王政君(元后)が生まれた。李雄は宕渠の住人であり、略陽の庶民であった。流民から身を起こし、君主として士民を得た。人を長じさせる魄がこれほどの土地があろうか。

『華陽国志』巻一「巴志」については『アジア・アフリカ文化研究所研究年報』第9号(1975年3月) p.25~p.86に「華陽国志訳注稿(1)」(船木勝馬、飯塚勝重、池田雄一、菊池良輝、谷口房男、山内四郎、渡辺宏) が掲載されています。2022年10月10日現在、「華陽国志訳注稿(1)」は国立国会図書館の「個人向けデジタル化資料送信サービス」の対象となっています。
 関連記事:⇒国立国会図書館の「個人向けデジタル化資料送信サービス」とは?利用資格や利用方法は
当ブログのこのページの訳を作った時点では「華陽国志訳注稿(1)」が閲覧できることを知らなかったので(閲覧できるようになってからも拙訳を見直していないので)参考文献としは挙げられませんがご紹介まで。