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『華陽国志』巻二「漢中志」ふんわり和訳

※素人が趣味で行っているざっくりとした現代語訳(日本語訳)です。当ブログについてをご確認のうえ自己責任でご利用下さい。訳文中、( )内はブログ管理人のコメントです。原文引用元は维基文库です。维基文库の校勘記を引用文から省いて维基文库が原文とみなした部分を訳しています。〔 〕内は他の史料から補われた部分が含まれていることも多いのでご注意下さい。维基文库の校勘についてはこちらの引用元をご確認下さい→引用元URL:https://zh.wikisource.org/wiki/華陽國志 最終閲覧日:2022年10月17日

漢中志

一、

【原文】
漢中郡,本【附】庸國〔地。周匡王二年,巴、秦、楚滅庸,其地分〕屬〔秦、巴。〕〔六國時,楚強盛,略有其地。後為蜀。〕〔恆成爭地。〕周赧王【二】〔三〕秦惠文王置郡。因水名也。
漢有二源:東源出武都氐道漾山,因名漾。《禹貢》「流漾為漢」是也。西源出隴西〔西縣〕嶓冢山,會白水,經葭萌,入漢。始源曰沔,故曰「漢沔。」在《詩》曰:「滔滔江漢,南國之紀。」其應上【照】〔昭〕於天。又曰:「惟天有漢。」其分野,與巴、蜀同占。其地東接南郡。南接【廣漢】〔於巴〕。西接【隴西、陰平】〔武都〕。北接秦川。厥壤沃美。賦貢所出,略侔三蜀。【六國時楚強盛,略有其地。後為秦。恆成爭地。】

【訳】
漢中郡はもとは庸国【の付属】〔地である。周の匡王二年に巴、秦、楚が庸を滅ぼし、その地を分けて〕〔秦、巴〕に属するようになった。〔六国の時、楚は勢いがあり盛んで、その地を攻略して所有した。後に蜀となった。〕〔長らく係争地であった。〕周のたん王の【二年】〔三年〕に秦の恵文王が郡を置いた。川(漢水のことか)の名が地名の由来である。
漢水には二つの水源がある。東源は武都氐道の漾山で、それちなんで漾水という。『禹貢』に「流漾りゅうよう漢をなす」とあるのはこれである。西源は隴西〔西県〕の嶓冢山で、白水に合流し、葭萌を経て漢水に入る。始源は沔水であるという。ゆえに「漢沔」と言う。詩経に「滔滔たる江漢は南国の紀」とある。それはまさに天に輝いている。また「惟れ天に漢あり」という。土地の分布は巴と蜀が等しく占めている。その地は東は南郡に接し、南は〔巴の〕【広漢】に接し、西は【隴西、陰平】〔武都〕に接し、北は秦川に接している。土壌は肥沃でよく、賦貢の出来高はだいたい三蜀と同じくらいである。【六国の時、楚は勢いがあり盛んで、その地を攻略して所有した。後に秦となった。長らく係争地であった。】

【原文】
漢高帝既克秦,獲子嬰,〔當王關中〕。項羽封高帝為漢王。王巴、蜀、〔漢中四〕【三】十一縣。帝不悅。丞相蕭何謀曰:「雖王漢【中】之惡,不猶愈於死乎?且語曰「天漢」,其稱甚美。夫能屈於一人之下,則伸於萬乘之上者,湯、武是也。願大王王漢中,撫其民以致賢人。收用巴蜀,還定三秦,天下可圖也。」帝從之。都南鄭。及【項籍弒義帝】高帝東伐,蕭何【常】居守漢中,足食足兵。既定三秦,蕭何鎮關中。資其眾,卒平天下。〔高帝九年,〕以田叔為漢中守。〔治西城〕。屬縣十二。【去洛一千九十一里】。叔既饋以軍饟,又致名材,立宮室。帝嘉之。【後為魯相】。然以帝業所興,不封藩王

【訳】
漢の高祖が秦に勝ち、子嬰(秦の三世皇帝)を捕らえ〔関中の王となった〕。項羽は高祖を漢王に封じ、高祖は巴、蜀、〔漢中の四〕【三】十一県の王となった。高祖は喜ばなかった。丞相の蕭何は謀をのべた「漢【中】という悪いところの王ですが死ぬよりはましでしょう。『天漢』という言葉もあり、とてもよいところだという称号です。一人の下に屈することができて万乗の上に伸長した者は湯王、武王です。大王は漢中の王として民を慰撫し賢人を集めて下さい。巴蜀を納め、三秦を奪還して平定すれば、天下を図ることができます」高祖はこれに従った。南鄭を都とした。【項羽が義帝を弑殺するに】及び、高祖は東伐し、蕭何は【常に】漢中に居留し、食と兵を充足させた。三秦を平定すると蕭何は関中に鎮して軍勢を供給し、ついに天下を平定した。〔高祖の九年〕田叔を漢中の守とし〔西城を治めた〕。属県は十二。【洛陽を去ること一千九十一里】。田叔は兵糧を送り、また人材を派遣し、宮室を盛り立てた。帝はこれを喜んだ。【のちに田叔を魯の相とした】。しかし帝業を興したため藩王には封じなかった。

二、

【原文】
自叔之後,世脩文教,有俶儻之士,異人並挺:鄧公抗言於孝景之朝,以明忠枉之情。張騫特以蒙險遠,為孝武帝開緣邊之地,賓沙越之國,致大宛之馬,入南海之象,而車渠、瑪瑙、珊瑚、琳碧、罽寶、明珠、玳瑁、虎魄、水晶、琉璃、火浣之布、蒲桃之酒、笻竹、蒟醬,殊方奇玩,盈於市朝。振揚威靈,被於幽裔。遂登九列,杖節、繡衣,剖符博望。谷口子真,秉箕潁之操,湛然岳立,不營不求,德聲邁流。楊王孫應至人之概。自建武以後,羣儒脩業。開按圖緯,漢之宰相,當出坤鄉。於是司徒李公,屢登七政。太傅子堅,弈世論道。其珪璋、瑚璉之器,則陳伯臺、李季子、〔陳〕申伯之徒,文秀瑋曄。其州牧、郡守,冠蓋相繼,於西州為盛。蓋濟濟焉。

【訳】
田叔の後、世は文教をおさめ、卓越した人士や異才が並び出た。鄧先は景帝の朝廷に抗言し、忠枉の情(鼂錯ちょうその忠義の心が正当に評価されていないこと)を明らかにした。張騫は険阻長途の旅をして武帝のために縁辺の地を開き、沙越の国を帰順させ、大宛馬や南海の象を漢に送り、車渠しゃこ、瑪瑙、珊瑚、琳碧、けい宝、明珠、玳瑁、虎魄、水晶、琉璃、火浣の布、蒲桃酒、きょう竹、蒟醬といった珍しいものが市朝に満ちた。威霊を振揚し、辺境の地まで広め、ついに九列に登り、杖、節、繡衣を得て博望侯に封ぜられた。谷口の子真(鄭樸)はえいの節操にのっとり、ひっそりと孤高を保ち、私利を追求せず、徳の評判は世に流れた。楊王孫は至人(道を極めた人)の概に応じた。建武年間以後、儒者たちが業を修め、図讖や緯書を解読するに、漢の宰相は坤(西南)の郷土から出るだろうということだった。そうして司徒の李郃はしばしば七政に登った。太傅の子堅(李固)は世代を超えて道を論じた。珪璋瑚璉の器(宝石のような器の人物)には陳伯台(陳雅)、李季子(李歴)、〔陳〕申伯(陳術)のともがらがおり、文において鮮やかである。州牧、郡守は高官となる者があいつぎ、西州において盛んとなった。人材溢れるといったところであろう。

三、

【原文】
莽時,公孫述據蜀,跨有漢中。當秦隴之徑,每罹於其害。安帝永初二年,陰平武都羌反,入於漢中,煞太守董炳,沒略吏民。四年,羌復來。太守鄭廑出屯褒中,欲與羌戰。主簿段崇陳諫,以為:「但可堅守。來虜乘勝,其鋒不可當。」廑不從。戰,敗績。崇與門下史王宗、原展、及崇子勃、兄子伯生,力戰捍廑,并命。功曹程信素居守,馳來赴難,冒寇殯殮廑。虜遂大盛。天子乃拜巴郡陳禪為漢中太守。虜素憚禪,更來盤結。禪知攻守未可卒【下】〔平〕,而年荒民困,乃矯詔赦之。大小咸服。既,誅其亂首。天子善之,徙禪左馮翊太守。程信怨恥,乃結故吏、冠蓋子弟嚴孳、李容、姜濟、陳巴、曹廉、勾矩、劉旌等二十五人,誓志報羌;各募壯士,豫結同死以待寇。太守鄧成,命信為五官〔掾〕,孳等門下官屬。

【訳】
王莽の頃、公孫述は蜀を根拠地とし漢中を股にかけた。秦・隴の道はいつもその害に遭った。安帝の永初二年、陰平・武都の羌が反し、漢中に入って太守の董炳を殺し、吏民を掠奪した。四年、羌が再び来た。太守の鄭廑ていきんは褒中に出陣して羌と戦おうとした。主簿の段崇がこう諌めた「ただ堅守するべきです。来虜は勝ちに乗じており、その鋒に当たるべきではありません」鄭廑は従わず、戦って敗績した。段崇は門下史の王宗、原展、および段崇の子の勃、兄の子の伯生とともに力戦して鄭廑を守り、ともに命を失った。功曹の程信は普段からここを守っており、難を救うために馳せ参じて寇に突入し、鄭廑を納棺した。虜の勢いはとうとう大いに盛んとなった。天子はそこで巴郡の陳禅を漢中太守とした。虜はもともと陳禅を憚っており、さらに来てぐるぐるとまとまった。陳禅は攻めるにしても守るにしてもただちには【下せない】〔平定できない〕と察知し、凶作で民が困窮しているため、詔をまげて羌をゆるした。人々は大も小もみな心服した。乱の首魁を誅殺すると、天子はこれを善しとして陳禅を左馮翊太守に移した。程信は恥辱を怨み、故吏や高官の子弟の厳、李容、姜済、陳巴、曹廉、勾矩、劉旌ら二十五人と結託し、羌に報復しようと志を誓った。おのおの壮士を募り、ともに死ぬ仲間をあらかじめ結集して寇を待った。太守の鄧成は程信を五官〔掾〕に任命し、厳孳らを門下の官属とした。

【原文】
元【和】〔初〕二年羌復來。巴郡板楯捄之。信等將其士卒,力奮討。大破之。信被八創,二十五人戰死。自是後,羌不敢南向。五年,天子下詔,褒嘆信、崇等,賜其家穀各千斛,宗、展、孳等家穀各五百斛。列畫東觀。每新太守到,必先存問其家。以羌畏服陳禪,拜禪子澄漢中太守。

【訳】
元【和】〔初〕二年、羌がまた来襲した。巴郡の板楯蛮がこれを救った。程信らはその士卒をひきいて力戦してこれを討ち、大いに破った。程信は八つの金創を負い、二十五人は戦死した。これより後、羌はあえて南に向かなかった。五年、天子が詔を下し、程信、段崇らを感嘆称揚し、その家に穀物各千斛を、王宗、原展、厳孳らの家には穀物各五百斛を賜い、東観に彼らの画を並べた。新しい太守が到着するたびに、必ずまず彼らの家を慰問した。羌が陳禅を畏れ服しているため、陳禅の子の陳澄を漢中太守とした。

四、

【原文】
漢末,沛國張陵,學道於蜀鶴鳴山,造作道書,自稱太清玄元,以惑百姓。陵死,子衡傳其業。衡死,子魯傳其業。魯字公祺,以鬼道見信於益州牧劉焉。魯母有少容,往來焉家。初平中,以魯為督義司馬,住漢中,斷谷道。魯既至,行寬惠,以鬼道教。立義舍,置義米、義肉其中;行者取之,量腹而已,不得過。過多,云鬼病之。其市肆賈平,亦然。犯法者,三原而後行刑。學道【未】〔永〕信者,謂之鬼卒。後乃為祭酒。巴、漢夷民多便之。其供,【道】〔通〕限出五㪷米。故世謂之「米道」。扶風蘇固為漢中太守。魯遣其黨張脩攻固。成固人陳調,素游俠,學兵法,固以為門下掾,說固守捍禦寇之術。固不能用。〔寇至,〕踰墻走,投南鄭趙嵩。嵩將俱逃。賊盛。固遣嵩求隱避處。嵩未還,固又令【鈴】〔鈐〕下偵賊。賊得鈐下,遂得煞固。嵩痛憤,杖劍直入,〔死之。〕調亦聚其賓客百餘人攻脩,戰死。

【訳】
漢末、沛国の張陵が蜀の鶴鳴山で道を学び、道書を書き、太清玄元と自称して百姓たみくさを惑わせた。張陵が死ぬと子の張衡がその業を伝え、張衡が死ぬと子の張魯がその業を伝えた。張魯あざなを公祺といい、鬼道によって益州牧の劉焉に信頼された。張魯の母は少女のような容貌の持ち主で、劉焉の家に出入りしていた。初平年間に張魯は督義司馬に任命され、漢中に住み、山間の道を断った。張魯は漢中に入ると寬恵を施し、鬼道をもって教化した。義舍を建て、義米・義肉を義舎の中に置き、旅人はこれを取って腹の容量まででやめることとし、取りすぎない。取りすぎれば鬼がその者を病にするという。市場の物価が公平であることもまたそうである。法を犯す者は三回までは許してその後には刑を執行する。道を【未だ】〔永く〕学【んでいない】〔んだ〕信者を鬼卒と言い、後には祭酒となる。巴・漢の夷民の多くはこれに習熟している。その【道】〔通〕に供えるのに五㪷の米を出す。ゆえに世に「米道」と言う。扶風の蘇固が漢中太守となり、張魯は身内の張脩を派遣して蘇固を攻めた。成固の人の陳調はもとは游俠で、兵法を学び、蘇固は陳調を門下掾としていた。陳調は蘇固に防衛のすべを説いたが蘇固は用いることができなかった。〔寇が至ると〕蘇固は墻を乗り越えて走り、南鄭の趙嵩に身を投じた。趙嵩は蘇固とともに逃げようとした。賊の勢いは盛んであり、蘇固は趙嵩に避難場所を探しに行かせた。趙嵩がまだ帰ってこないうちに蘇固はまた部下を派遣して賊を偵察に行かせた。賊は部下を捕らえ、ついに蘇固を殺した。趙嵩は痛憤し、剣を取って突撃し〔戦死した。〕陳調もまたその賓客百余人を集めて張脩を攻撃し、戦死した。

【原文】
魯【遂】〔既〕有漢中,數害漢使。焉上書言「米賊斷道。」至劉焉子璋為牧時,魯益驕恣。璋怒,建安五年殺魯母、弟。魯【說】〔率〕巴夷〔王〕杜濩、朴胡、袁約等叛,為讎敵。魯時使使漢朝,亦慢【驕】〔憍〕。帝室以亂,不能征,就拜【鎮民】中郎將、漢寧太守。不置長吏,皆以祭酒【為】治〔民〕。璋數遣龐羲、李思等討之,不能克,而巴夷日叛;乃以羲為巴西太守〔禦魯〕。又遣楊懷、高沛守關頭。請劉先主討魯。先主更襲取璋。

【訳】
張魯は漢中を得て、しばしば漢の使者を害した。劉焉は「米賊が道を断っている」と上書した。劉焉の子の劉璋が州牧となるに至った時、張魯はますます驕恣になった。劉璋は怒り、建安五年に張魯の母と弟を殺した。張魯は巴の夷〔王〕の杜濩、朴胡、袁約らを【説き】〔率い〕て叛き、仇敵となった。張魯は時に使者を漢朝に遣わせたが、また慢【驕】〔憍〕であった。帝室は乱れており張魯を征伐することができないため張魯を【鎮民】中郎将、漢寧太守に任命した。長吏は置かず、みな祭酒が〔民を〕治めた。劉璋はしばしば龐羲、李思らを派遣して張魯を攻撃したが勝つことができず、巴の夷は日々叛いた。そこで龐羲を巴西太守に任命〔し、張魯を防がせた〕。また楊懐、高沛を派遣して要所を守らせ、劉先主に張魯を討つよう請うた。先主はさらに襲って劉璋の地を取った。

【原文】
〔建安〕二十年,魏武帝西征魯。魯走巴中。先主將迎之。而魯功曹巴西閻圃說魯北降,歸魏武,贊以大事。宜附託〔杜濩、朴胡委質〕。不然,西結劉備以歸之。魯勃然曰:「寧為曹公作奴,不為劉備上客。」遂委質魏武。武帝拜魯鎮南將軍,封襄平侯。又封其五子,皆列侯。時先主東【下】〔取〕江【安】〔州〕,巴、漢稽服。魏武以巴夷王杜濩、朴胡、袁約為三巴太守。留征西將軍夏侯淵,及張郃益州刺史趙顒等守漢中。遷其民於關隴。

【訳】
〔建安〕二十年、魏の武帝が西に遠征して張魯を討とうとした。張魯は巴中に走った。先主はこれを迎えようとしたが、張魯の功曹の巴西の閻圃は張魯に北へ降って魏の武帝に帰順して大事を補佐したほうがいいと説き、〔杜濩、朴胡に礼物を〕託するのがよいと言った。そうしないなら西で劉備と結託して劉備に帰順することだと説いた。張魯は勃然として言った「むしろ曹公の奴婢となるも劉備の上客にはならぬ」ついに魏の武帝に礼物を送った。武帝張魯を鎮南将軍とし、襄平侯に封じた。またその五人の息子をみな列侯に封じた。そのとき先主は東【に下って】江【安】〔州〕〔を取り〕、巴・漢は拝服した。魏の武帝は巴の夷王の杜濩、朴胡、袁約を三巴の太守とし、征西将軍夏侯淵および張郃益州刺史趙顒らを留めて漢中を守らせ、その民を関・隴に移した。

五、

【原文】
二十四年春,先主進軍攻漢中。至定軍,淵、郃、顒來戰,大為先主所破。將軍黃忠斬淵、顒首。魏武帝復西征先主。先主曰:「孟德雖來,無能為也。我必有漢川矣。」〔乃歛眾拒險,終不交鋒。魏武積月不能拔,果引軍還。〕先主遂為漢中王。將還成都,當得重將以鎮漢中。眾皆以必張飛張飛心亦自許。先主乃以牙門義陽魏延鎮遠將軍、漢中太守。先主大會羣臣,問延曰:「今委卿以漢中。卿居之若何?」對曰:「若曹操舉天下而來,請為大王拒之。若偏將十萬而來,請為大王吞之。」眾壯其言。初,魏武之留淵、郃也,以雞肋示外。外人莫察。惟主簿楊脩知之,故曰:「夫雞肋,棄之如可惜,食之無所得,以比漢中也。」是後,處蜀、魏界,固險重守。自丞相〔亮〕、大司馬〔琬〕、大將軍〔禕〕,皆鎮漢中。

【訳】
建安二十四年春、先主が軍を進めて漢中を攻めた。定軍に至り、夏侯淵張郃、趙顒が来て戦い、先主に大いに破られた。将軍黄忠夏侯淵、趙顒の首を斬った。魏の武帝はふたたび西へ先主を征伐しに来た。先主は言った「孟徳が来たとて何もできないだろう。私が必ず漢川を有するのだ」〔そうして軍勢をひっこめて険阻に依り、ついに鋒を交えなかった。魏の武帝は何ヶ月も漢中を抜くことができず、予想通り軍を引いて帰還した。〕先主はついに漢中王となった。成都に帰還するにあたり、重将に漢中を鎮守させる必要があった。きっと張飛だろうとみんな思っており、張飛も心の中でそう自認していた。ところが先主は牙門の義陽の魏延鎮遠将軍、漢中太守とした。先主は群臣たちと大きな会合をして魏延にこうたずねた「今きみに漢中を委ねる。きみの抱負はどうだ」魏延はこう答えた「もし曹操が天下をこぞって来れば、大王のためにこれを防ぎます。もし偏将十万が来れば、大王のためにこれを飲み込みます」みんなその言葉を勇壮だと思った。はじめ、魏の武帝夏侯淵張郃を留め、人に雞肋と言った。聞いた人は意味が分からなかった。主簿の楊脩だけが意味を察知して言った「鶏の肋骨は捨てるには惜しいが食べるところはない。これを漢中に喩えているのだ」この後、蜀と魏の境界に駐留して要害を固めて重く守った。丞相〔諸葛亮〕、大司馬〔蒋琬〕、大将軍〔費禕〕はみな漢中を鎮守した。

郡県

 

六、

【原文】
蜀平,梁州治沔陽。太康中,【晉】武帝【子】〔孫〕漢王迪受封,更曰漢國。〔李雄時〕郡但六縣。
南鄭縣  郡治。周貞王十【六】〔八〕年,秦厲公城之。有池水,從旱山來入沔。大姓李、鄭、趙氏。
沔陽縣  州治。有鐵官。【又】有度水。水有二源:一曰清檢,二曰濁檢,〔并〕有魚穴。清水出𩼈,濁水出鮒,常以二月八月取。蜀丞相諸葛亮葬定軍山。
褒中縣  孝昭帝元鳳六年置。本都尉治也。山名扶木。有唐公房祠也。
成固縣  蜀時,以沔陽為漢城,成固為樂城。
蒲池縣
西鄉縣

【訳】
蜀が平定されると梁州は沔陽を治所とした。太康年間、【晋の】武帝【の子】〔孫〕漢王の司馬迪が封ぜられ、漢国とあらためた。〔李雄の時〕郡は六県だけだった。
南鄭県  郡の治所である。周の貞王十【六】〔八〕年、秦の厲公がここを城とした。池水があり、旱山から沔水に入る。大姓に李氏、鄭氏、趙氏がいる。
沔陽県  州の治所である。鉄官がいる。【また】度水がある。度水にはふたつの水源があり、ひとつは清検と言い、ふたつには濁検と言う。〔ならびに〕魚穴があり、清水からはドジョウが、濁水からはフナが出る。いつも二月と八月に取る。蜀の丞相諸葛亮は定軍山に葬られた。
褒中県  昭帝の元鳳六年に置かれる。もとは都尉の治所である。山の名は扶木。唐公房の祠がある。
成固県  蜀の時、沔陽を漢城とし、成固を楽城とした。
蒲池県
西郷県

魏興郡

七、

【原文】
魏興郡,本漢中西城縣。哀平之世,縣民錫光,字長沖,為交州刺史。徙交阯太守。王莽篡位,【據】〔拒〕郡不附。莽方有事海內,未以為意。尋值所在兵起,遂自守。更始即位,正其本官。世祖嘉其忠節,徵拜為大將軍朝侯祭酒,封鹽水侯。後漢中數寇亂,縣土獨存。漢季世別為郡。建安二十四年,劉先主命宜都太守孟達從【姊】秭歸北伐房陵、上庸。自漢中,又遣副軍中郎將劉封乘沔水會達上庸。以申躭弟儀為建信將軍、西城太守。達、躭降魏。黃初二年,〔魏〕文帝轉儀為魏興太守,封鄖鄉侯。〔住洵口。〕蜀平,【遂】〔還〕治西城。屬縣六。戶萬。去洛一千七百里。土地險隘。其人半楚。風俗略與荊州、沔中【郡】同。
西城縣  郡治。元康元年,封越騎校尉蜀郡何攀為公國也。
錫縣  〔有錫穴。〕
安康縣  〔本安陽縣,太康中改。〕
興晉縣  晉置。
鄖鄉縣  本名長利縣。縣有鄖〔關〕【鄉】。
洵陽縣  〔北山〕洵水所出。

【訳】
魏興郡はもとは漢中の西城県である。哀帝平帝の御世に県民の錫光、字は長沖が交州刺史となり、交阯太守に転任した。王莽が帝位を簒奪すると郡【に拠り】〔を守り〕王莽には付かなかった。王莽は天下に事をかまえようとしながら未だ意のごとくならなかった時、続いて兵が起こったがついに自守した。更始帝が即位し、もとの官を正した。世祖は錫光の忠節を嘉し、召して大将軍、朝侯祭酒に任命し、塩水侯に封じた。後漢のあいだしばしば寇乱がおこったが、県土は独り存していた。漢の末の世に別れて郡となった。建安二十四年、劉先主は宜都太守の孟達に【姊】秭帰から房陵、上庸へ北伐するよう命じた。漢中からはまた副軍中郎将劉封を派遣し、沔水に乗って上庸で孟達と合流するようにした。申躭(申耽)の弟の申儀を建信将軍、西城太守とした。孟達、申躭は魏に降った。黄初二年、〔魏の〕文帝は申儀を魏興太守に転任させ、鄖郷侯に封じ〔洵口に駐留させ〕た。蜀が平定されると【ついに】西城を治所とした〔に戻した〕。属県は六。戸数は一万。洛陽を去ること一千七百里。土地は険しくて狭い。住人はなかば楚人である。風俗はだいたい荊州、沔中【郡】と同じである。
西城県  郡の治所である。元康元年、越騎校尉の蜀郡の何攀を封じて公国となる。
錫県  〔錫穴がある。〕
安康県  〔もとの安陽県。太康年間に改められる。〕
興晋県  晋が置く。
鄖郷県  もとの名は長利県。県には鄖〔関〕【郷】がある。
洵陽県  〔北山〕洵水の出る所である。

上庸郡

八、

【原文】
上庸郡,故庸國,楚與巴秦所共滅者也。秦時屬蜀。後屬漢中。漢末為上庸郡。建安二十四年,孟達劉封征上庸。上庸太守申躭稽服,遣子弟及宗族詣成都。先主拜躭征北將軍,封鄖鄉侯,仍郡如故。黃初中,降魏。文帝拜躭懷集將軍,徙居南陽。省上庸,并新城。孟達誅後,復為郡。屬縣五。戶七千。去洛一千七百里
上庸縣  郡治。
北巫縣  安樂鄉,咸熙元年為公國,封劉後主也。
武陵縣
安富縣
微陽縣

【訳】
上庸郡はもとは庸国で、楚が巴・秦とともに滅ぼし、秦の時に蜀に属し、後に漢中に属し、漢末に上庸郡となった。建安二十四年、孟達劉封が上庸に遠征した。上庸太守の申躭が降伏し、子弟および宗族を成都に遣わせた。先主は申躭を征北将軍とし、鄖郷侯に封じ、郡はもとのままとした。黄初年間に魏に降った。文帝は申躭を懐集将軍とし、居を南陽に移させ、上庸を廃して新城に併合した。孟達が誅された後、また郡に戻った。属県は五。戸数は七千。洛陽を去ること一千七百里
上庸県  郡の治所である。
北巫県  安楽郷。咸熙元年に公国となる。劉後主を封じた。
武陵県
安富県
微陽県

新城郡

九、

【原文】
新城郡,本漢中房陵縣也。秦始皇徙呂不韋舍人萬家於房陵,以其隘地也。漢時宗族、大臣有罪,亦多徙此縣。漢末,以為房陵郡。建安二十四年,孟達征房陵,煞太守蒯祺,進平三郡。與劉封不和,封奪達鼓吹。關羽圍樊城,求助於封、達。封、達以新據山郡,未可擾動為辭。羽為吳所破殺。達既忿封,又懼先主見責,遂拜書先主告叛,降魏。魏文帝善達姿才容觀,以為散騎常侍、建武將軍,〔使〕襲劉封。封敗走,達據房陵。文帝合三郡為新城〔郡〕,以達為太守。

【訳】
新城郡はもとは漢中の房陵県である。秦の始皇帝呂不韋の舍人一万家を房陵に移した。房陵が隘地(険しい土地、狭い土地)だからである。漢の時代には宗族、大臣に罪があれば多くがこの県に移された。漢末に房陵郡となった。建安二十四年、孟達が房陵に遠征し、太守の蒯祺を殺して進軍し、三郡を平らげた。孟達劉封と不和になり、劉封孟達の鼓吹(儀仗楽隊)を奪った。関羽が樊城を包囲したさい、劉封孟達に救援を求めた。劉封孟達は新たに山郡に拠ったところだったため、騒動をおこすべきではない時期だとして援軍を断った。このため関羽は呉に破られ殺された。孟達は前から劉封に対して忿りを抱いており、また先主に責められることをおそれ、ついに先主に書を送って叛くことを告げ、魏に降った。魏の文帝は孟達の才と風采をよしとし、孟達を散騎常侍、建武将軍として劉封を襲撃させた。劉封は敗走し、孟達は房陵に拠った。文帝は三郡を合わせて新城〔郡〕とし、孟達を太守とした。

【原文】
【後】蜀丞相諸葛亮將北伐,招達為外援,故貽書曰:「嗟乎,孟子度!邇者,劉封侵凌足下,以傷先帝待士之望。慨然永嘆!每存足下平素之志,豈虛託名載策者哉!」都護李嚴亦與書曰:「吾與孔明,並受遺詔,思得良伴。」吳王孫權亦招之。達遂背魏,通吳、蜀。表請馬、弩於文帝,撫軍司馬宣王以為不可許。帝曰:「吾為天下主,義不先負人。當使吳、蜀知吾心。」乃多與之,過其所求。明帝太和初,達叛魏歸蜀。時宣王屯宛,知其情,乃以書喻之曰:「將軍昔棄劉備託身國家。〔國家〕委將軍以疆場音邑。之任,任將軍〔以〕圖蜀之事,可謂心貫白日。蜀人愚智莫不切齒於將軍。諸葛亮欲相破,惟苦無路耳。模之所言,非小事也,亮豈輕之而令宣露,此殆易知耳。」達【乃】以書與亮曰:「宛去洛八百,去此千二百里,聞吾舉事,當表上天子。比相反覆,一月閒也;則吾城已固,諸軍足辨。【則】吾所在深險,司馬公必不自來。諸將來,吾無患矣。」及兵到,達又告亮曰:「吾起事八日,而兵至城下,何其神速也!」亮以其數反覆,亦不捄。遂為宣王所誅滅。宣王分為三郡。新城屬縣四,戶二萬。去洛一千六百里
房陵縣  郡治。有維山,維水所出,東入【瀘】〔沔〕。〔筑水,北入沔。〕
沶鄉縣
昌魏縣
綏陽縣

【訳】
【後に】蜀の丞相諸葛亮が北伐するにあたり、孟達招請して外援とし、書を送って言った「ああ孟子度。最近のことは劉封があなたを侮辱し先帝の待士の望を傷つけたのだ。慨然として永嘆するとこである。いつも足下の平素の志を思うに、名声だけで世に出ている人なわけはない」都護の李厳もまた書を与えて言った「私は孔明とともに先帝の遺詔を受け、思いを同じくしている相棒です」呉王孫権もまた孟達を誘った。孟達はついに魏に背き、呉、蜀に内通した。魏の文帝に上表して馬、弩を請うたが、撫軍の司馬宣王(司馬懿)は許可するべきではないと考えた。文帝は言った「吾は天下の主であるから義として自分から人に背くことはせぬ。呉、蜀に使者を出し吾が心を知らしめよ」そうして求められたよりも多くを与えた。明帝の太和年間のはじめに孟達は魏に謀叛して蜀に帰順した。そのとき司馬宣王は宛に駐屯していたが、情勢を知ると書を出してこう諭した「将軍はかつて劉備を捨てて国家に身を託し、〔国家は〕将軍に戦場の任を委ねました。将軍に蜀の攻略を任せることは太陽のごとく明らかなことと言っていいでしょう。蜀人は愚かな者も智い者も将軍に対して切歯憤慨していない者はいません。諸葛亮は将軍を破りたいと思っており、その手立てがないことに悩んでいるだけです。郭模(孟達の尻に火をつけるために諸葛亮が蜀から魏に降伏させた人物。孟達が魏に対して謀叛するという情報を魏にリークした)が言ってきたことは小事ではなく、諸葛亮が簡単に露見させるはずがありません。これがどういうことであるかは容易に分かります」【すると】孟達諸葛亮に書を出して言った「宛は洛陽を去ること八百里で、ここからは千二百里離れています。私が兵を挙げたことを聞いてから天子に上表すればそのやりとりで一ヶ月ですから、その頃には私の城はすでに防備がかたまり諸軍の準備もできているはずです。【なので】私が心配しているのは司馬公がきっと自分では来ないだろうということですが、司馬公ではなく諸将が来るなら私が手間取ることもありません」兵が到るに及び、孟達はまた諸葛亮に告げた「私が事を起こしてから八日で兵が城下に至りました。なんたる神速でしょう」諸葛亮孟達がしばしば寝返っているため救援しなかった。ついに孟達は司馬宣王に誅滅された。司馬宣王は房陵を三郡に分けた。新城は属県四、戸数二万。洛陽を去ること一千六百里である。
房陵県  郡の治所である。維山がある。維水の出どころで、東に流れて【瀘水】〔沔水〕に入る。〔筑水は北に流れて沔水に入る。〕
沶郷県
昌魏県
綏陽県

十、

【原文】
右三郡,漢中所分也。在漢【中】之東,故蜀漢謂之「東三郡」。蜀時為魏,屬荊州。晉元康六年,始還梁州。山水艱阻,有黃金、子午,馬【聰】〔騣〕建鼓之阻。又有作道,九君摶土作人處。而其記及,《漢中記》不載。又不為李雄所據。璩識其大梗概,未能詳其小委曲也。

【訳】
右三郡は漢中の分けた所である。漢【中】の東にあり、蜀漢では「東三郡」と言った。蜀のとき魏となり、荊州に属した。晋の元康六年、はじめて梁州になった。山水は艱難険阻である。黄金、子午、馬【聰】〔騣〕建鼓といった険阻な地形がある。また作道がある。九君が土をこねて人間を作った所である。しかしその記述は『漢中記』には記載されていない。また李雄が拠点としたところともされていない。わたくし (華陽国志の編者の常璩じょうきょ)は大まかなところは知っているがまだ細かいところにはつまびらかでない。

梓潼郡

十一、

【原文】
梓【橦】〔潼〕郡,本廣漢屬縣也。建安十八年,劉先主自葭萌南攻州牧劉璋,留中郎將南郡霍峻守葭萌城。張魯遣將楊帛誘峻,求共城守。峻曰:「小人頭可得,城不可得也。」帛退。劉璋將向存、扶禁由巴閬水攻峻。歲餘,不能克。峻眾才八百人。存眾萬計,更為峻所破敗,退走。成都既定,先主嘉峻功,年,分廣漢置梓潼郡,以峻為太守。屬縣六。戶萬。去洛二千八百三十八里。東接巴西。南接廣漢。西接陰平。北接漢中。土地出金、銀、丹、漆、藥、蜜也。世有雋彥,人侔於巴蜀
梓【橦】〔潼〕縣  郡治。有五婦山,故蜀五丁士所拽虵崩山處也。有善板祠,一曰惡子。民歲上雷杼十枚。歲盡,不復見,云雷取去。四姓,文、景、雍、鄧者也。
涪縣  去成都三百五十里。水通於巴。【於】〔為,〕蜀【為】東北之要。蜀時,大將軍鎮之。有【岩】〔宕〕田、【本】〔平〕稻田。孱水,出孱山。其源【出】〔有〕金、銀礦;洗取,火融合之,為金銀。陽泉,出石丹,大司馬蔣琬葬此。大姓楊、杜、李。人士多見《耆舊傳》也。
晉壽縣  本葭萌城。劉氏更曰漢壽。水通於巴西,又入漢川。有金銀礦,民今歲歲取洗之。蜀亦大將軍鎮之。漆、藥、蜜所出也。大將軍費禕葬【此】〔北〕山。大姓葬此者多。
白水縣  有關尉,故州牧劉璋將楊懷、高沛守也。
〔昭歡縣〕
漢德縣  有劍閣道三十里,至險。有閣尉,〔領〕桑下兵民也。

【訳】
梓【橦】〔潼〕郡はもとは広漢の属県である。建安十八年、劉先主が葭萌から南に向かい州牧の劉璋を攻めたさい、中郎将の南郡の霍峻を留めて葭萌城を守らせた。張魯は将の楊帛を派遣し、霍峻にともに城を守ろうともちかけた。霍峻は言った「私の首なら得ることができるが城を得ることはできないぞ」楊帛は退散した。劉璋の将の向存と扶禁は巴の閬水から霍峻を攻めたが一年余りかかっても勝つことができなかった。霍峻の軍勢はわずか八百人、向存の軍勢はおよそ一万であったが、さらに霍峻に破られ敗走した。成都が平定されると先主は霍峻の功を嘉し、建安二十二年に広漢を分けて梓潼郡を置き、霍峻を太守とした。属県は六。戸数は一万。洛陽を去ること二千八百三十八里。東は巴西に接し、南は広漢に接し、西は陰平に接し、北は漢中に接する。土地からは金、銀、丹、漆、薬、蜜を産出する。世に秀でた人物を出すことは巴蜀と同等である。
梓【橦】〔潼〕県  郡の治所である。五婦山がある。むかし蜀の五丁士が蛇をひきずって山を崩した場所である(巻三「蜀志」三参照)。善板祠がある。張悪子の祠だともいう。民は毎年雷杼らいちょ(雷神が雷を起こす道具)十枚をささげる。年の終わりに雷杼がなくなっていれば、雷が持って行ったのだと言う。四姓あり、文氏、景氏、雍氏、鄧氏である。
涪県  成都を去ること三百五十里。水は巴に通じる。蜀の東北の要である。蜀の時、大将軍がここを鎮守した。【岩】〔宕〕田、【本】〔平〕稲田がある。せん水が孱山に出る。その源から金鉱、銀鉱が出る。洗って取り、火で融合すれば金銀となる。陽泉から石丹が出る。大司馬の蒋琬がここに葬られている。大姓は楊氏、杜氏、李氏。人士は多く『耆旧伝』(『益部耆旧伝』?)に書かれている。
晋寿県  もとの葭萌城である。劉氏が漢寿と改めた。水は巴西に通じ、また漢川に入る。金鉱銀鉱があり、民は今は年々これを取って洗う。蜀の大将軍がまた鎮守した。漆、薬、蜜を産出する。大将軍費禕が【この】〔北〕山に葬られている。大姓でここに葬られる者が多い。
白水県  関尉がいる。むかしの州牧劉璋の将の楊懐、高沛が守った。
〔昭歓県〕
漢徳県  剣閣道三十里がある。いたって険しい。閣尉がいる。桑下の兵民〔を領するの〕である。

武都郡

十二、

【原文】
武都郡,本廣漢西部都尉治也。元鼎六年,別為郡。屬縣九。〔戶五萬餘。今〕戶萬。去洛一千八百七十八里。東接〔漢中。〕〔南接〕梓潼。西接天水。北接始平。土地險阻有麻田氐傁,多羌戎之民。其人半秦,多勇戇。出名馬,牛、羊、漆、蜜。有瞿堆百頃險勢,氐傁常依之為叛。漢世數征討之。分徙其羌,遠至酒泉、敦煌,其攻戰壘、戍處所亦多。建安二十【四】〔二〕年,先主遣將軍雷同、吳蘭平之。為魏將曹洪所破殺。魏益州刺史、天水楊阜治此郡。阜以濱蜀境,移其氐傁於汧、雍及天水、略陽。建興七年,丞相諸葛亮遣護軍陳戒伐之,遂平武都、陰平二郡。還屬益州。魏將夏侯淵張郃徐晃征伐,常由此郡;而蜀丞相亮及魏延姜維等多從此出秦川;遂荒無留民。其氐傁、楊濮屬魏,魏遙置其郡。〔惟地〕屬蜀。蜀平,屬雍州,太康六年還梁州。〔元康六〕【八】年,氐傁齊萬年反。郡罹其寇,晉民流徙入蜀及梁州。

【訳】
武都郡はもとは広漢西部都尉の治所である。元鼎六年に別に郡となる。属県九。〔戸数五万余であった。今は〕戸数一万。洛陽を去ること一千八百七十八里。東は〔漢中〕に接し、〔南は〕梓潼〔に接し〕、西は天水に接し、北は始平に接する。土地は険阻である。麻畑がある。氐叟がおり、羌戎の民が多い。住人は半ば秦で、愚かで剛勇の者が多い。名馬、牛、羊、漆、蜜を産する。瞿堆の百頃の険しい地勢があり、氐叟はつねにこれに依拠して叛いた。漢の御世にはしばしばこれを征討し、その羌を分けて移住させ、遠く酒泉、敦煌へ行かせた。彼らの攻戦の塁や軍事拠点もまた多い。建安二十【四】〔二〕年、先主は将軍雷同、呉蘭を派遣してこれを平らげたが、魏の将曹洪に破れて殺された。魏の益州刺史の天水の楊阜がこの郡を治めた。楊阜は蜀の境に隣接していることを考慮して氐叟を汧、雍および天水、略陽に移した。建興七年、丞相諸葛亮は護軍の陳戒を派遣してこれを伐たせ、ついに武都、陰平の二郡を平らげ、益州の属郡に戻した。魏の将夏侯淵張郃徐晃の征伐はつねにこの郡に依っており、蜀の丞相諸葛亮および魏延姜維らは多くはここから秦川に出たたため、ついに荒れて留まる民はいなくなった。氐叟の楊濮(氐族の王?)が魏に属し、魏は遥かにその郡を置いた。〔ただ土地だけ〕蜀に属していた。蜀が平定され、雍州に属した。太康六年に梁州に帰属した。〔元康六〕【八】年、氐叟の斉万年が反乱を起こした。郡はその寇をこうむり、晋の民は蜀および梁州に流れて行った。

【原文】
永嘉初,天水氐傁楊茂搜率種人為寇;保據其郡,貢獻長安。愍帝以胡寇方盛,欲懷來戎翟,拜〔茂搜〕驃騎將軍、左賢王。劉曜長安,丞相平昌公上隴,據天水。茂搜數饋〔獻〕。平昌公拜茂搜長子難敵征南將軍,少子堅頭龍驤將軍。種眾彊盛。東破梁州。南連李雄。威服羌戎。【時】平昌公為劉曜所破,陳安作賊。于時,并氐傁如一國。茂搜死,敵、堅代為主。數歲,劉曜自攻武都。敵、堅南奔雄,至晉壽,遣子為質。又厚賂雄兄晉壽守將稚。曜不獲敵、堅,引還。〔敵、堅還〕武都。恃險驕慢,攻走雄陰平太守羅演。演,稚舅也。稚忿恚,白兄含與雄,求征之。雄使含、稚將數千人攻之。時敵妻死,葬於陰平。含、稚徑至下辨,入武街城。以深入無繼,盡為氐傁所破煞。敵、堅死,子【盤】〔磐〕毅復代為王。咸康四年,敵、從弟初,煞磐、毅兄弟,代為主,迄今。自茂搜父子之結據也,通晉家,及李雄、劉曜、石勒、石虎、張駿,皆稱臣奉貢,受其官號;所向用其官及其年號。

【訳】
永嘉年間のはじめ、天水の氐叟の楊茂搜が同じ種族を率いて寇をなした。その郡を保って根拠地とし、長安に貢物を送った。愍帝は胡寇がまさに勢い盛んであるため戎狄を懐柔したいと考え、〔楊茂搜を〕驃騎将軍、左賢王とした。劉曜長安を破り、丞相の平昌公が隴水を上り、天水を拠点とした。楊茂搜はしばしば贈り物をした。平昌公は楊茂搜の長子楊難敵を征南将軍に、少子楊堅頭を竜驤将軍とした。種族は強く盛んになり、東に梁州を破り、南に李雄と連合し、その威は羌戎を服させた。【時に】平昌公が劉曜に破れ、陳安は賊となった。ここで氐叟は併合され一国のようになった。楊茂搜が死に、楊難敵、楊堅頭が代って主となった。数年して劉曜が自ら武都を攻め、楊難敵、楊堅頭は南の李雄のところに奔った。晋寿に至ると子を人質にした。またねんごろに李雄に賄賂をして晋寿の守将の李稚に面会した。劉曜は楊難敵、楊堅頭を捕らえずに引き返した。〔楊難敵、楊堅頭は〕武都〔に帰還した〕。険阻をたのみとして驕慢であり、李雄の陰平太守の羅演を攻めて敗走させた。羅演は李稚の母方のおじである。李稚は憤怒し、兄の李含と李雄とに楊難敵・楊堅頭らを伐ちたいと言った。李雄は李含、李稚に数千人を率いさせて攻撃させた。そのとき敵は妻が死に、陰平に葬った。李含、李稚はついに下弁に至り、武街城に入った。深く侵入していながら後継部隊がいなかったため、ことごとく氐叟に破られ殺された。楊難敵、楊堅頭が死ぬと子の【楊盤】〔楊磐〕楊毅がまた代って王となった。咸康四年、楊難敵の従弟の楊初が楊磐、楊毅兄弟を殺し、代って主となって今にいたる。楊茂搜父子が結拠して以来、ずっと晋王室、および李雄、劉曜、石勒、石虎、張駿にすべて臣と称して奉貢し、その官号を受けてきた。その時々で目の前にいる相手の官および年号を使っている。

十三、

【原文】
下辨縣  郡治。一曰武街。
武都縣  【東】漢水所出。有天池澤。
上祿縣
故道縣
河池縣  泉街水,入沮,合漢也。
沮縣  河池水所出東狼谷也。
平樂縣
脩城縣
嘉陵縣

【訳】
下弁県  郡の治所である。武街ともいう。
武都県  【東】漢水の出る所である。天池沢がある。
上禄県
故道県
河池県  泉街水は沮水に入り漢水に合流する。
沮県  河池水の出る所である。東狼谷である。
平楽県
脩城県
嘉陵県

陰平郡

十四、

【原文】
陰平郡,本廣漢北部都尉〔治〕。永平後,羌虜數反,遂置為郡。屬縣四。戶萬。去洛二千三百四十四里。東接【漢中】〔武都〕。南接梓潼。西接【隴西】〔汶山〕。北接【酒泉】〔隴西〕。土地山險。人民剛勇。多氐傁。有黑、白水羌,紫羌,胡虜。風俗、所出,與武都略同。
漢安帝永初二年,羌反,燒郡城。郡人退住白水。會漢陽諸羌反,溢入漢,煞太守。漢陽杜琦,自稱將軍,叛亂。廣漢郡屯葭萌。漢使御史大夫唐喜討琦,進討羌。經年不下。詔賜死。更遣中郎將尹就討羌,亦無功。諸郡太守皆屯涪。元初五年,巴郡板楯軍救漢中。漢中大破羌。羌乃退。郡復治。置助郡都尉。

【訳】
陰平郡はもとは広漢北部都尉〔の治所である〕。永平年間の後、羌虜がたびたび反し、ついに郡とした。属県は四。戸数は一万。洛陽を去ること二千三百四十四里。東は【漢中】〔武都〕に接し、南は梓潼に接し、西は【隴西】〔汶山〕に接し、北は【酒泉】〔隴西〕に接する。土地は山が険しく、人民は剛勇である。氐叟が多い。黒水羌、白水羌、紫羌がいる。胡虜の風俗、出る所は武都とほぼ同じである。
漢の安帝の永初二年、羌が反して郡城を焼いた。郡の人は退いて白水に住んだ。ちょうど漢陽の諸羌の反乱があり、溢れて漢に入って太守を殺した。漢陽の杜琦は将軍を自称して広漢郡で叛乱し、葭萌に駐屯した。漢は御史大夫の唐喜に杜琦を討たせ、進んで羌を討たせたが、一年以上経っても下さなかったため詔で死を賜った。さらに中郎将の尹就を派遣して羌を討たせたが、これもまた功があがらなかった。諸郡の太守はみな涪に駐屯した。元初五年、巴郡の板楯軍が漢中を救い、漢中は大いに羌を破った。羌は退き、郡は統治を回復した。助郡都尉を置いた。

【原文】
劉先主之入漢中也,爭二郡不得。建興七年,諸葛亮始命陳戒平之。魏亦遙置其郡,屬雍州。自景谷有步道,徑江油左儋行出涪。鄧艾從之伐蜀。元康六年,還屬梁州。永嘉末,太守王鑒粗暴,郡民毛深、左騰等逐出之,相率降李雄。晉民盡出蜀,氐羌為楊茂搜所占有。
陰平縣  郡治。漢曰陰平道也。〔有白水出徼外,入羌水。〕
甸氐縣  有【白】〔羌〕水出徼外,入漢。
平武縣  有關尉。【自景谷有步道,徑江油左儋出涪,鄧艾伐蜀道也】劉主時置義守。【號關尉】
剛氐縣  涪水所出。有金銀礦。

【訳】
劉先主は漢中に入ると二郡を争ったが得なかった。建興七年、諸葛亮がはじめて陳戒に命じてこれを平定した。魏もまた遙かにその郡を置き、雍州に属させた。景谷から歩道があり、江油・左儋を通って涪に出る。鄧艾はこれによって蜀を伐った。元康六年、梁州に帰属した。永嘉の末年、太守の王鑑が粗暴で、郡民の毛深、左騰らはついにここを出て連れ立って李雄に降った。晋の民はことごとく蜀を出て、氐羌は楊茂搜に占有された。
陰平県  郡の治所である。漢には陰平道と呼んだところである。〔白水が境外に出て羌水に入る。〕
甸氐県  【白】〔羌〕水が境外に出て漢水に入る。
平武県  関尉がいる。【景谷から歩道があり、江油・左儋を通って涪に出る。鄧艾が蜀を伐った道である。】劉主の時に義守を置いた。【関尉と号した】
剛氐県  涪水の出るところである。金銀鉱がある。

十五、

【原文】
右梁州。

【訳】
右、梁州。

【原文】
譔曰:漢沔彪炳,靈光上照。在天鑒為雲漢。於地畫為梁州。而皇劉應之,洪祚悠長。蕭公之云,不亦宜乎。

【訳】
譔にいわく、漢水沔水のきらめきは霊光上を照らす。天にありては天の川となり、地においては梁州となる。かくして皇劉(高祖劉邦)これに応じ、盛んなる国運は悠長なり。蕭公の言(この巻の冒頭で蕭何は「天漢」という呼び方の話をしている)もまたよろしからずや。

参考文献:船木勝馬編(分担者:飯塚勝重、池田雄一、菊池良輝、谷口房男、北條祐勝、山内四郎)「華陽国志訳注稿(2)」(『アジア・アフリカ文化研究所研究年報』第10号、1976年3月、p.19~p.71)
2022年10月17日現在、「華陽国志訳注稿(2)」は国立国会図書館の「個人向けデジタル化資料送信サービス」の対象となっています。
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