先日ツイッターでこんなお話を拝見しました。
Jominianさんのツイートから示唆をいいただいて考えてみることにしました。
- 司馬懿が伊尹にたとえられたシチュエーション
- 伊尹はどんな人?-忠臣か逆臣か
- パターン1:王の暴虐を反省させ国を安定させた忠臣
- パターン2:王位を簒奪して殺された逆臣
- 司馬懿がたとえられたのはどちらの伊尹なのか
- 司馬懿を忠臣としての伊尹にたとえた意味とは
- まとめ
司馬懿が伊尹にたとえられたシチュエーション
問題の文章は『
及宣帝薨,議者咸云「伊尹既卒,伊陟嗣事」,天子命帝以撫軍大將軍輔政。
原文引用元:漢籍電子文献資料庫
最終閲覧日:2020年8月15日
参照ページURL: http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm
【訳】宣帝 (司馬懿)が亡くなった。議論する人たちはみんな「伊尹が亡くなったのですから、(息子の)伊陟 がその後継となるべきでしょう」と言った。天子(曹芳 )は帝(司馬師 )を撫 軍 大将軍に任命し、政治を輔佐させた。
『晋書』では生きている間に皇帝に即位したわけではない司馬懿や
司馬懿が亡くなった時には司馬一族は皇帝になっておらず、
この文章の意味は、魏の重臣だった司馬懿が亡くなった時に、人々が皇帝曹芳に「司馬懿が亡くなったら息子の司馬師に司馬懿と同じ役割をさせればいいですよ」と進言したということですね。
そして曹芳が司馬師を昇進させて政治を
司馬懿と司馬師の親子をたとえるのに使われているのが
伊尹はどんな人?-忠臣か逆臣か
人々が司馬懿をたとえるのに使った伊尹とはどういう人物でしょうか。
史書には2パターンの話があります。
王を追放して自らが政治を執ったことは共通していますが、片方では忠臣、もう一方では逆臣になっています。
パターン1:王の暴虐を反省させ国を安定させた忠臣
帝太甲既立三年,不明,暴虐,不遵湯法,亂德,於是伊尹放之於桐宮。三年,伊尹攝行政當國,以朝諸侯。帝太甲居桐宮三年,悔過自責,反善,於是伊尹迺迎帝太甲而授之政。帝太甲修德,諸侯咸歸殷,百姓以寧。
(『史記』殷本紀より)
原文引用元:漢籍電子文献資料庫
最終閲覧日:2020年8月15日
参照ページURL: http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm
【訳】
帝太甲 は位について三年経ったが、明晰ではなく、暴虐で、湯王 が定めた法を遵守せず、徳を乱していた。このため伊尹は王を桐宮 に追放した。
三年の間、伊尹が国政を執り、諸侯に応対した。
帝太甲は桐宮に三年間いて、過去の過ちを反省し、善い人物になった。
そこで伊尹は帝太甲を迎え、太甲に政権を与えた。
帝太甲は徳を修め、諸侯はみな殷 に服し、人々はやすらいだ。
このパターンは『
伊尹が王を追放して政治を執ったのは王が暴虐だったからであり、王が反省したら伊尹は王に政治を返して国は栄えた、という話になっています。
この話は、伊尹は王を立派な王にさせて国を栄えさせた忠臣であるという解釈をされるのが一般的です。
パターン2:王位を簒奪して殺された逆臣
2つめのパターンでは、伊尹は逆臣として殺されています。
仲壬崩伊尹放大甲于桐乃自立也伊尹即位放大甲七年大甲潜出自桐殺伊尹乃立其子伊陟伊奮命復其父之田宅而中分之
(「春秋経伝集解後序」に引用されている『竹書紀年』より)
原文引用元:中国哲学書電子化計画 春秋経伝集解後序
最終閲覧日:2020年8月15日
参照ページURL: https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=310983
【訳】仲壬 が亡くなると、伊尹は太甲を桐 に追放し、自らが王になった。
伊尹が即位し太甲を追放して七年で、太甲はひそかに桐を脱出し、伊尹を殺した。
太甲は伊尹の子の伊陟 と伊 奮 を立てて伊尹の土地家屋を回復させ、分け合わせた。
これは『
この話だと、伊尹は王を追放して位を奪い、討伐されただけの逆臣ですね。
司馬懿がたとえられたのはどちらの伊尹なのか
国を栄えさせた忠臣か、討伐された逆臣か。
司馬懿はどちらの伊尹にたとえられたのでしょうか。
晋書
太康二年,汲郡人不準盜發魏襄王墓,或言安釐王冢,得竹書數十車。其紀年十三篇,記夏以來至周幽王為犬戎所滅,以事接之,三家分,仍述魏事至安釐王之二十年。蓋魏國之史書,大略與春秋皆多相應。其中經傳大異,則云夏年多殷;益干啟位,啟殺之;太甲殺伊尹……
原文引用元:漢籍電子文献資料庫
最終閲覧日:2020年8月15日
参照ページURL: http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm
内容は『
つまり、これが発見される前の
司馬懿が亡くなったのは西暦251年ですから、人々が司馬懿のたとえに使ったのは王位を簒奪して殺された逆臣ではなく、王の暴虐を反省させて国を安定させた忠臣としての伊尹だということになります。
司馬懿を忠臣としての伊尹にたとえた意味とは
司馬懿は忠臣としての伊尹にたとえられていることが分かりました。
忠臣としての伊尹は、王が暴虐だったから政をとりしきっただけであり、王が伊尹の気に入るようにふるまえば国は栄えました。
人々が皇帝曹芳への提言の中で司馬懿のことを伊尹にたとえたということは、曹芳に対して、「あなたは暴虐です。あなたは司馬一族の言うことさえ聞いていればいいのです。それが天下国家のためです」と言っているに等しいでしょう。
まとめ
司馬懿が亡くなった当時、伊尹は王の暴虐を矯正させた忠臣として認識されていました。
人々が司馬懿を伊尹にたとえたことの意味は、皇帝曹芳に対し、あなたは政を執るにふさわしくない暴虐な君主であって司馬一族の言う通りにしなければ位に在るに値しないと言っているに等しいでしょう。
曹芳はその衆議に屈して、司馬懿の息子の司馬師を司馬懿同様に重用することにしました。
司馬懿が亡くなった当時にはすでに皇帝曹芳をないがしろにする空気があったこと、曹芳がその衆議を跳ね返す力を持たなかったことが分かりました。
『晋書』景帝紀のこの先の部分を読むと、司馬師が曹芳を帝位から廃するくだりがありますが、そこでも人々は伊尹の名前を持ちだして、伊尹は太甲を追放して殷をやすんじたのだと言っています。
伊尹を持ち出すということは、皇帝に「あんたは暴虐だ、位を下りろ」というプレッシャーをかける言葉であると理解してよいと思います。