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神は細部にやどる!三国志演義が一文字に込めた思いとは

三国さんごくえん』は、歴史書の『三国志』に記されている時代の出来事を、様々な史料や講談などを参考にしながら物語としてまとめた小説です。
話の面白さもさることながら、知識人が読むにも耐える書物として、文体の格調高さや歴史考証も追求されています。

史書からの引用文も多い『三国志演義』ですが、引用文をよく見ると、時々原文とは異なる表現がみられます。
異なる表現に変更されている箇所を見ると、『三国志演義』の編纂意図を読み取ることができます。
本日はいくつかの例を挙げながら、『三国志演義』の細やかな編纂態度に思いを馳せてみましょう。

「天下に曹洪はいなくともよいが、殿はいなくてはなりませぬ」

三国志演義』第六回に、曹洪そうこう曹操そうそうに馬を譲るシーンがあります。
董卓とうたく軍と戦って大敗し、敗走する曹操
自身も負傷し、馬も失ってしまいます。
追っ手が迫り、まさにピンチというところで、曹操を助け起こして馬に乗せる一人の将。それは自分の馬を曹操に譲る曹洪でした。
曹操「賊が迫っているぞ。お前はどうするのだ」
曹洪天下に曹洪はいなくともよいが、殿はいなくてはなりませぬ

かっこいいですね。
この言葉は正史『三国志』の曹洪伝にもありますが、一文字だけ異なっています。

天下可無洪,不可無。(正史『三国志』)
天下可無洪,不可無。(『三国志演義』)

史書では「君」となっていた部分を、演義では「公」と書き換えてあります。
三国志曹洪伝によれば、曹洪曹操の従弟。
一族の若者同士で相手を呼ぶ時に、対等な相手への敬称である「君」はごく自然な呼び方です。
一方、「公」というのは相手のことを明らかに目上とみなした呼び方です。

実際の歴史上では、董卓と戦っていた当時の曹操は海のものとも山のものとも知れない駆け出しの人物でしたが、三国志演義』では後におうにまで昇る曹操のことを、最初からひとかどの群雄として特別扱いされていた存在として描いているのですね。

「こうすれば大業が成り、漢室を興すことができます」

三国志演義』第三十八回に、諸葛亮しょかつりょう劉備りゅうびに天下三分の計を説くシーンがあります。
曹操孫権そんけんの勢力圏は揺るがしがたいので劉備荊州けいしゅう益州えきしゅうを占めるべし。
情勢が動いた時に荊州益州から攻勢をかけよ。
こう説いたあと、諸葛亮は「こうすれば大業たいぎょうが成り、漢室かんしつおこすことができます」と言葉を結びます。

この論は正史『三国志諸葛亮伝にもありますが、『三国志演義』とはわずかに文言が異なっています。
結びの言葉には下記のような違いがあります。

誠如是,則業可成,漢室可興矣。(正史『三国志』)
誠如是,則業可成,漢室可興矣。(『三国志演義』)

史書では「覇業はぎょう」となっていた部分を、演義では「大業」と書き換えてあります。
」とは実力行使で政権を握ることですが、儒教じゅきょうの伝統的な価値観においては、力で政権を取ることよりも徳によって政権の座につくことのほうが理想的とされていました。
三国志演義』の中で理想的な君主として描かれる劉備は、「覇業」を為すわけにはいかないということで、演義編者は「覇業」を「大業」に書き換えたのでしょう。

「鞠躬尽瘁し、死して後やむ」

三国志演義』第九十七回に、諸葛亮が二度目の北伐の軍をおこすにあたって皇帝 劉禅りゅうぜんに奉った表文「すいの表」が載っています。
「後出師の表」は正史『三国志諸葛亮伝の注釈に引用されている『漢晋春秋かんしんしゅんじゅう』に載っており、『三国志演義』とはわずかに文言が異なっています。
最後のほうの「身をまげて慎み、死して後やむ所存です」という部分には下記のような違いがあります。

臣鞠躬盡,死而後已。(『三国志』注引『漢晋春秋』)
臣鞠躬盡,死而後已。(『三国志演義』)

史書では「尽力」となっていた部分を、演義では「尽瘁」と書き換えてあります。
「尽力」は力を尽くすこと、「尽瘁じんすい」はくたくたになるまでやることです。
三国志演義』の諸葛亮は力を尽くすだけではだめで、へろへろになるまで頑張らないといけないようです。
物語としてはそのほうが悲壮感が盛り上がっていいのかもしれませんが、情け容赦のない編集ですね!
※「後出師の表」の「鞠躬盡力」を「鞠躬盡瘁」と改めることは、『三国志演義』が成立するより前の南宋なんそうの時代にはすでに行われていたようです。
関連記事:後出師の表の「鞠躬尽力」を「鞠躬尽瘁」に変えたのは文天祥なのか?

まとめ

以上、『三国志演義』が歴史書から引用している文章の中で、たった一文字の書き換えによって『三国志演義』らしい思想を表現している例を三つ挙げました。

・君→公:曹操は最初からリーダー格
・覇業→大業:劉備は力ずくの人ではなく徳の人
・尽力→尽瘁:諸葛亮はへろへろになるまで頑張るべし

三国志演義』が一文字たりともおろそかにせず、独自のメッセージを込めるために表現に磨きをかけている様子がおわかりいただけることと思います。

三国志演義』を『三国志』の単なるダイジェスト的な物語として読むだけでなく、独自の世界観と洗練された表現も味わっていただけると、より深淵な『三国志演義』の魅力を感じていただけることと思います!

原文引用元:
・中華書局『三国志』1982年7月 第2版
山東文藝出版社『三国志演義』1991年12月第1版