その年の冬に二度目の遠征を始めます。
その際、皇帝
「後出師の表」の末尾にある「
- 「鞠躬尽力」と「鞠躬尽瘁」の違いとは?
- 「鞠躬尽瘁」に変えたのは文天祥だと言われているけど本当?
- 文天祥の著作『指南録』の後序では「鞠躬尽力」のまま!
- 王炎午が文天祥のために書いた「生祭文丞相文」に「鞠躬尽瘁」があった!
- まとめ
「鞠躬尽力」と「鞠躬尽瘁」の違いとは?
『三国志演義』などで知られているフレーズは「鞠躬尽瘁し、死して後やむ」
元ネタの歴史書では「鞠躬尽力し、死して後やむ」です。
いずれも「身を曲げて慎み、死ぬまで頑張ります」というような意味です。
「尽力」なら力を尽くすだけですが、「尽瘁」だと、へろへろになるまで頑張ることになりますね。
そのほうが悲壮感がアップし諸葛亮の生涯をヒロイックに語ることができますから、後代の人が「尽瘁」で語り伝えたのももっともと思います。
関連記事:神は細部にやどる!三国志演義が一文字に込めた思いとは
「鞠躬尽瘁」に変えたのは文天祥だと言われているけど本当?
「後出師の表」の「鞠躬尽力」は、いつから「鞠躬尽瘁」に変わったのでしょうか。
先日ツイッターのフォロワーさんから教えていただいたブログ記事には下記のように書かれていました。
”「鞠躬尽瘁,死而后已」は、本来『後出師の表』では「鞠躬尽力」であるが、文天祥が「鞠躬尽瘁」として以来、こちらが一般的である。”
引用元:
「第6回 元首たちの古典教養その4―鞠躬尽瘁,死而后已―|現代に生きる中国古典」
中国語学習ジャーナル Chinesse Sation
投稿者:西川芳樹 最終閲覧日:2020年7月29日
参照URL:https://www.ch-station.org/koten0006/
文天祥は、諸葛亮が魏との国力差に悩みながら魏に対する戦いを続けた姿に己を重ね合わせていたことでしょう。
力を尽くすどころじゃない、へろへろになるまでやるぞ、という自分の気持ちを文天祥が「後出師の表」に込めて書き換えちゃったとしても不思議ではありません。
しかし、本当に文天祥が「鞠躬尽力」を「鞠躬尽瘁」に書き換えたのでしょうか?
文天祥の著作『指南録』の後序では「鞠躬尽力」のまま!
文天祥がどこかで「鞠躬尽瘁」と言っていないかと探していたところ、文天祥の著作『
「尽力」のままですね……「尽瘁」に書き換えられていませんね!?
引用元:中国哲学書電子化計画「文山先生全集卷之十三 別集 指南録後序」 最終閲覧日:2020年7月29日
参照URL:https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=275609
王炎午が文天祥のために書いた「生祭文丞相文」に「鞠躬尽瘁」があった!
文天祥と「鞠躬尽瘁」を結びつける文章がどこかにないかと探したところ、
今鞠躬盡瘁,則諸葛矣。
引用元:維基文庫「生祭文丞相文」 最終閲覧日:2020年7月29日
参照URL:https://zh.wikisource.org/wiki/生祭文丞相文/
王炎午は文天祥の部下でした。
元に捕らわれた文天祥が元に仕えることを潔しとせず死のうとしていることを知った王炎午は、 彼の意志を励ますために、この「生祭文丞相文」を書きました。
祭文は本来は亡くなった人を祭るために書くものですが、「生祭文丞相文」は文天祥が生きている間に書かれ、節を全うしたまま亡くなることを応援したものです。
その文章の中で、王炎午は文天祥のことを諸葛亮に喩えながら「鞠躬尽瘁」と書いております。
まとめ
正史『三国志』の注釈に引用されている『漢晋春秋』では、「後出師の表」の有名なフレーズは「鞠躬尽力,死而後巳」ですが、『三国志演義』では「鞠躬尽瘁,死而後巳」です。
「尽力」を「尽瘁」に変えたのは文天祥だという話がありましたが、文天祥の『指南録』後序では「尽力」のままでした。
王炎午が文天祥のために書いた「生祭文丞相文」には、文天祥を諸葛亮に喩えて「今鞠躬尽瘁,則諸葛矣」と書いてある部分があります。
「鞠躬尽力」を「鞠躬尽瘁」に変えたのが誰だかは分かりませんが、文天祥ではなさそうですね。
文天祥と結びつけて考えるとすれば、王炎午の「生祭文丞相文」のほうが可能性が高いと思いました。