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徐庶はどんな人?正史三国志と注釈の全記述を一挙紹介!

三国志の中で、劉備りゅうび諸葛亮しょかつりょうの出会いをプロデュースしたキーパーソンである徐庶じょしょ
三国志演義の中では忠と孝との板挟みになり劉備のもとを離れて曹操そうそうに降ったものの、心はずっと劉備にあり続けて曹操への献策はしなかったというハートフルな人物として描かれており、人気があります。

正史三国志を読んでも、徐庶のことを悪く言っている人は一人もおらず、実際にかなり人望のあった人だったのではないかと思います。
本日は正史三国志とその注釈の中で徐庶に言及されている部分をノーカット完全版(?)でご紹介いたします。

ヤ〇ザのヒットマンだった徐庶(魏略)

まずは諸葛亮伝の注釈に引用されている『魏略ぎりゃく』を見てみましょう。

【原文】
魏略曰:庶先名福,本單家子
【訳】
『魏略』に曰く。徐庶はもとの名をふくと言い、たん(勢力のある一族ではない家)の子である

もとの名を徐福じょふくと言ったんですね。(しん皇帝こうていの時代に同姓同名のほうがいましたね)
たんとは門閥とか大姓とか豪族とかいうたぐいの家ではないピンの家という意味です。
三国志演義ではこの単を苗字みょうじのように扱って、劉備に出会ったばかりで本名を偽って述べる徐庶が「姓を単、名を福と申します」と名乗っていますね。

【原文】
少好任俠擊劍。中平末,嘗爲人報讎,白堊突面,被髮而走,爲吏所得,問其姓字,閉口不言。吏乃於車上立柱維磔之,擊鼓以令於市鄽,莫敢識者,而其黨伍共篡解之,得脱。
【訳】
若くして任侠にんきょう撃剣げっけんを好んだ。
中平ちゅうへい年間の末に人のために仇討ちをしたことがあり、顔を白土で塗り髪をざんばらにして逃走した。
役人に捕らえられ、名前を問われたが黙秘していた。
役人は車の上に柱を立て、そこに徐福を縛り付けて太鼓を鳴らして市にふれたが、知っていると名乗り出る者がいなかったばかりでなく、徐福の仲間が徐福のいましめを解いて奪還して逃がした。

若くして任侠撃剣を好み、人のために仇討ちをした。
……ヤ〇ザのヒットマンですね。
捕まっても名前も言わないとは根性が座っています。(きっと拷問されながらの黙秘ですよ)
「市」というのは売買をする場所ですが歌舞伎町ばりに種々雑多な人達の集う場所です。
徐庶を見知っている人はいたものの、官憲に従順に申告する人はいなかったんですね。
徐庶と仲間達の信頼関係が厚いことが分かります。
しかも徐庶のいましめを解いて奪還したというのですから、どんなスリリングな市なんだという感じですね。官憲も命懸けですね……。

【原文】
於是感激,棄其刀戟,更疎巾單衣,折節學問。
【訳】
徐福はこのことに大いに感ずるところがあり、刀やげきを捨て、質素な身なりにあらため、身を屈して学問にはげむようになった。

ここいて感激し」というのが何をどう「感激」したのかはよく分かりませんが、こんなことばっかりしていたらいかんと思ったのでしょうか、任侠をやめて学問を身につけることにしたんですね。
疎巾單衣に着替えるとか、折節学問とか書いてあるので、それまでは豪華絢爛な服装をして偉そうにのし歩いていたのでしょう。
そういう生活から足を洗い、地味な格好をして人にへりくだって学問を始めた、と。
こんなドラマや漫画、ありそうですね……。

インテリ坊やたちから相手にされなくても黙々と努力する(魏略)

【原文】
始詣精舍,諸生聞其前作賊,不肯與共止。福乃卑躬早起,常獨掃除,動靜先意,聽習經業,義理精熟。遂與同郡石韜相親愛。
【訳】

塾に入ったばかりの頃、学生たちは徐福がならず者だったことを知り、徐福と一緒に行動したがらなかった。
徐福は謙虚な態度で早起きをし、いつも一人で掃除をして、人の気持ちをよく汲んで行動し、経学けいがくを学び、義や理に精通した。同じ郡の出身者の石韜せきとうと親しくなった。

原文には「インテリ坊や」とは書いてありません。私が勝手に想像しました。
子供を学問所に通わせるようなお家で育った学生たちから見れば、人生経験豊富な徐庶は凶状持ちの得体の知れないオッサンに見えたのではないでしょうか。
昭和の任侠映画高倉健さんが演じていそうな雰囲気ですね(?)

劉備に仕え、そして分かれる(魏略)

【原文】
初平中,中州兵起,乃與韜南客荊州,到,又與諸葛亮特相善。及荊州內附,孔明劉備相隨去,福與韜俱來北。
【訳】
初平しょへい年間、中原ちゅうげんで兵乱が起こり、徐福と石韜せきとうは南に荊州けいしゅうに流れた。
荊州諸葛亮ともたいへん仲良しになった。
荊州曹操に降ると、諸葛亮劉備に従って行き、徐福と石韜は北(曹操支配下)に行った。

このあたりは三国志演義徐庶の存在感が大いに発揮される部分ですが、『魏略』ではあっさりしていますね。
正史三国志の本文によれば、徐庶が先に劉備のところへ行き、諸葛亮のことを劉備に推薦して、その後いっしょに劉備に仕えていた様子で、徐庶の母が曹操に捕らえられたために徐庶曹操に降ったとなっています。

魏で出世するも、諸葛亮はまだ不足と嘆じる。平穏な後半生か(魏略)

正史本文は後で読むとして、まずは『魏略』のこの部分を最後まで読みましょう。

【原文】
至黃初中,韜仕歷郡守,典農校尉,福至右中郎將、御史中丞。逮大和中,諸葛亮出隴右,聞元直、廣元仕財如此,歎曰:「魏殊多士邪!何彼二人不見用乎?」庶後數年病卒,有碑在彭城,今猶存焉。
【訳】
黄初こうしょ年間に石韜は郡守を歴任し、典農てんのう校尉となった。
徐福は右中郎将・ぎょ中丞ちゅうじょうとなった。
たい年間に諸葛亮隴右ろうゆうに遠征した時、彼らがこのような任官をしていることを聞いて、諸葛亮は「魏はなんと士が多いことか。なぜあの二人が用いられないのか」と嘆じた。
徐庶はその後数年して病気で亡くなった。
彭城ほうじょう徐庶があり、今でもまだある。

漢書かんじょ百官志ひゃっかんしによれば、徐庶が任じられた右中郎将の秩石ちっせきは比二千石、御史中丞は千石。
たいへんな出世ですが、諸葛亮から見れば用いられていないように見えたんですね。
国の柱石を担ってもいいほどの人物だという評価でしょう。

諸葛亮から見れば不足のようですが、徐庶は魏に降ってから高官につき、病死ということはおそらく天寿を全うして、没後には碑を立ててもらえるような後半生だったということですね。

三国志演義のイメージだと、魏に降ってからは鳴かず飛ばずで寂しい後半生を送っていそうに見えますが、『魏略』はそうでもなさそうで、徐庶のためにはよかったなと思います。

ちなみに、細かいことですが、『魏略』ではずっと徐庶のことを徐福の「福」と書いてあり、諸葛亮が嘆くところではあざなの元直げんちょくで書き、亡くなるところは徐庶の「庶」で書いてあります。

劉備に仕える前の徐庶諸葛亮(魏略)

三国志諸葛亮伝の注釈に『魏略』が引用されている箇所はもう一箇所あります。

【原文】
魏略曰:亮在荊州,以建安初與潁川石廣元、徐元直、汝南孟公威等俱游學,三人務於精熟,而亮獨觀其大略。每晨夜從容,常抱膝長嘯,而謂三人曰:「卿三人仕進可至刺史郡守也。」三人問其所至,亮但笑而不言。後公威思鄉里,欲北歸,亮謂之曰:「中國饒士大夫,遨遊何必故鄉邪!」
【訳】
『魏略』に曰く。
諸葛亮荊州において、建安けんあん初年に潁川えいせん石広元せきこうげん、徐元直、汝南じょなん孟公もうこうらとともに遊学した。石広元ら三人は細かいところまで習熟しようとしたが、諸葛亮だけは大略を見ていた。朝に晩に従容しょうようとして、常に膝を抱えて長嘯ちょうしょうし、三人にこう言った。
「君たち三人は出仕すれば州や郡の長官にはなれるだろう」
三人が諸葛亮はどのくらいになるのだと聞いたが、諸葛亮は笑うだけで何も言わなかった。
後に公威が郷里に帰りたくなり、北(曹操)に帰順しようとしていると、諸葛亮はこう言った。
「中原にはすごい人物がごまんといるんだから、ぶらぶら過ごすなら故郷にこだわることもないじゃないか」

これは諸葛亮が自分のことを特別視していたというだけの逸話でしょうかね……

魏略には徐福(徐庶)の伝がある

三国志裴潜はいせん伝の注釈には下記のような記述があります。

【原文】
魏略列傳以徐福、嚴幹、李義、張既、游楚、梁習、趙儼、裴潛、韓宣、黃朗十人共卷,其既、習、儼、潛四人自有傳,徐福事在諸葛亮傳,游楚事在張既傳。餘幹等四人載之於後。
【訳】
『魏略』の列伝では徐福(徐庶)、厳幹げんかん李義りぎ張既ちょうきゆう梁習りょうしゅう趙儼ちょうげん裴潜はいせん韓宣はいせん黄朗こうろうの十人が同じ巻に収録されている。
三国志』では張既、梁習、趙儼、裴潜の四人には独立した伝がある。
徐福のことは諸葛亮伝の注釈に書いた。
游楚のことは張既伝の注釈に書いた。
残りの厳幹ら四人のことをこの後に記す。

『魏略』には徐庶の列伝があったんですね。
どうして『三国志』には徐庶の伝がないのでしょうね。
三国志』を書いた陳寿が蜀の出身であって、徐庶のことは諸葛亮の友人というポジションで見ていたために、魏での徐庶の活躍を書きたくなかったのかもしれませんね。

諸葛亮を評価する(三国志諸葛亮伝)

ここまでは『魏略』を見てきました。次は正史三国志諸葛亮伝を見てみましょう。

【原文】
亮躬畊隴畝,好爲梁父吟。身長八尺,每自比於管仲、樂毅,時人莫之許也。惟博陵崔州平、潁川徐庶元直與亮友善,謂爲信然。
【訳】
諸葛亮は自ら畑を耕し、好んで梁父吟を歌っていた。身長は八尺あった。いつも自分のことを管仲楽毅に並ぶ者だと言っていたが、当時の人達は誰もその通りだとは認めなかった。ただ博陵の崔州平、潁川の徐庶元直は諸葛亮と仲がよく、その通りだと思っていた。

崔州平と徐庶は本気で諸葛亮の才を認めていたのか、それとも優しい友達だったから「お、おう……」って相槌を打ってあげていただけなのか、どっちなんでしょう!?

諸葛亮劉備に推薦する(三国志諸葛亮伝)

【原文】
時先主屯新野。徐庶見先主,先主器之,謂先主曰:「諸葛孔明者,臥龍也,將軍豈願見之乎?」先主曰:「君與俱來。」庶曰:「此人可就見,不可屈致也。將軍宜枉駕顧之。」由是先主遂詣亮。
【訳】
この時、先主(劉備)は新野に駐屯していた。徐庶が先主に会いに行くと、先主は徐庶をひとかどの人物だと思った。徐庶は先主にこう言った。
諸葛孔明臥龍です。将軍、会ってみたいとは思いませんか」
先主はこう言った。
「連れてきて下さい」
徐庶はこう言った。
「この人に会いに行くことはできますが、来させることはできません。将軍がご足労されて会いに行かれるのがよろしいでしょう」
そこで先主は諸葛亮を訪問することにした。

これが有名な「三顧の礼」の前段階ですね。
まず徐庶劉備に会いに行って、立派な人物だと思わせておいて、いやいやもっと立派な人がいます、と話を振り、気安く呼びつけることができるような人物じゃないんですよ、ともったいつけて、諸葛亮を高く売るというお話ですね。

三国志演義では三回訪問してやっと諸葛亮を仲間にすることができた劉備ですが、正史三国志では何回訪問したかは分かりません。
諸葛亮伝に収録されている「出師の表」で諸葛亮自身が「三顧臣于草廬之中」と書いていますが、「三」というのが実数かどうかは分かりませんし、実際に訪問を受けたのかどうかも思い出補正が入っている疑惑がないでもありませんが、それはまた機会があれば別の記事で書きましょう。

母親が曹操に捕らわれ、劉備と別れて曹操に降る(三国志諸葛亮伝)

【原文】
亮與徐庶並從,爲曹公所追破,獲庶母。庶辭先主而指其心曰:「本欲與將軍共圖王霸之業者,以此方寸之地也。今已失老母,方寸亂矣,無益於事,請從此別。」遂詣曹公。
【訳】
諸葛亮徐庶はともに劉備についていったが、曹公(曹操)の追撃を受けて敗れ、徐庶の母が捕らえられた。
徐庶は先主に分かれを告げ、胸を指さしながら言った。
「この方寸(一寸四方の場所。心)をもって将軍とともに王覇の業を図るつもりでしたが、老母を失い方寸が乱れてしまい、何もできなくなりました。ここでおいとまいたします」
そうして曹公のところへ行った。

この場面は三国志演義の名シーンの一つですが、正史三国志の本文の中にあるんですね。

司馬徳操や龐徳公との交流(襄陽記)

三国志の注釈に引用されている『襄陽記』では、司馬徳操や龐徳公との交流が記されています。

【原文】
襄陽記曰:朗少師事司馬德操,與徐元直、韓德高、龐士元皆親善。(三国志向朗伝の注)
【訳】
『襄陽記』に曰く、向朗は若くして司馬徳操を師とし、向朗、徐元直(徐庶)、韓徳高(韓嵩)、龐士元(龐統)はみな仲が良かった。

【原文】
德操嘗造德公,值其渡沔,上祀先人墓,德操徑入其室,呼德公妻子,使速作黍,「徐元直向云有客當來就我與龐公譚。」其妻子皆羅列拜於堂下,奔走供設。須臾,德公還,直入相就,不知何者是客也。德操年小德公十歲,兄事之,呼作龐公(三国志龐統伝の注)
【訳】
司馬徳操が龐徳公のところへ行った時、龐徳公はちょうど沔水を渡って墓参りに行っているところだった。
司馬徳操はずかずかと上がり込み、龐徳公の妻子を呼んでせかして黍を料理させ、「龐徳公と話をしにくる者が訪れると徐元直(徐庶)から聞いているでしょう」と言っていた。
龐徳公の妻子は堂の下にかしこまって、もてなしに奔走した。
しばらくして龐徳公が帰宅し、見に行ったが、客が誰であるか知らなかった。
司馬徳操は龐徳公より十歳年少であったので、龐徳公に兄事して、龐公と呼んだ

司馬徳操の徳操は字で、名は徽。司馬徽徐庶と同じ潁川郡の出身です。
三国志演義では水鏡先生という呼び方で親しまれていますね。
徐庶の師ですが、龐徳公とは面識がなかったようで、龐徳公の留守中に「徐庶から私が来るって聞いてますよね?」と家に上がり込んで、当たり前のように接待させていたんですね。
そして龐徳公に会うと、兄として仕えた、と。
龐徳公とお近づきになりたくてわざとそんな態度をとったんでしょうかね、司馬徳操は。面白い人ですね。
『襄陽記』の記述を見ると、徐庶が同郷の司馬徳操とも荊州龐徳公らとも交流があったことが分かりますね。

諸葛亮から理想的な働き方をする人物として言及される(三国志董和伝)

三国志董和伝には下記のような記述があります。

【原文】
亮後爲丞相,教與羣下曰:「夫參署者,集衆思廣忠益也。若遠小嫌,難相違覆,曠闕損矣。違覆而得中,猶棄弊蹻而獲珠玉。然人心苦不能盡,惟徐元直處茲不惑,又董幼宰參署七年,事有不至,至于十反,來相啓告。苟能慕元直之十一,幼宰之殷勤,有忠於國,則亮可少過矣。」
【訳】
諸葛亮は後に丞相となり、部下達にこう指導した。
「官にある者は、人々の意見を集め、思考を広くして、忠にはげまなければならない。もし嫌な者を遠ざけ、意見の違う者に難癖をつければ、仕事は虚しく損なわれてしまう。異なる意見にも見るべきものを見いだすことは、破れ草履を捨て珠玉を得るようなものだ。とはいえ、人間はいつでも理想的に振る舞えるとは限らないものだ。徐元直(徐庶)だけは迷わずこのような振る舞いができた。また、董幼宰(董和)は官にあること七年、至らぬことがあれば十回でもやり直し、相談に来たものだ。もし元直の十分の一も真似することができ、幼宰のように実直な態度で国に忠を尽くすことができれば、私も過ちを少なくすることができるだろう」

徐庶は嫌な人の話や意見の違う人の話もきちんと聞くことができたようです。
任侠から足を洗って塾に入った時に、インテリ坊やたちに相手にされなくても周りに気遣いをしながら頑張っていましたが、そういう態度のままだったようですね。

率直に意見してくれた友人として回想される(三国志董和伝)

先程の記述の続きです。

【原文】
又曰:「昔初交州平,屢聞得失,後交元直,勤見啓誨,前參事於幼宰,每言則盡,後從事於偉度,數有諫止;雖姿性鄙暗,不能悉納,然與此四子終始好合,亦足以明其不疑於直言也。」
【訳】
またこのようにも言った。
「人との交流を始めたばかりの頃に崔州平と交際し、しばしば自らの欠点を教えられた。のちに元直と交際し、教示を受けた。最近では幼宰と働き、いつも言をつくしてもらった。後に胡偉度(胡済)と仕事をし、なんども諫めてもらった。私は偏屈で全てを聞き入れることはできなかったが、しかしこの四人とはいつも気が合った。腹蔵なく率直に言ってくれたことの証だ」

諸葛亮に率直に意見を言ってくれる友人だったそうです。貴重な友人ですね。

親孝行な人物の例として挙げられる(三国評)

三国志程昱伝の注釈に引用されている三国評には下記のような文章があります。
これは徐庶とはあまり関係がないので訳しませんが、徐庶は親孝行な人物の例として名前が挙がっています。
曹操呂布と戦っている時に、靳允という人は母や妻子や弟が呂布に捕らえられていましたが、曹操側から説得され、涙ながらに曹操の側につきました。
下の文章はその時の曹操のやりかたを批判したもので、親孝行が成り立つようにしてやるべきだったと言っており、その例として「徐庶の母親が曹操に捕らえられた時に劉備徐庶曹操のところへ行かせてやった」という話を挙げています。

徐衆評曰:允於曹公,未成君臣。母、至親也,於義應去。昔王陵母爲項羽所拘,母以高祖必得天下,因自殺以固陵志。明心無所係,然後可得成事人盡死之節。衞公子開方仕齊,積年不歸,管仲以爲不懷其親,安能愛君,不可以爲相。是以求忠臣必於孝子之門,允宜先救至親。徐庶母爲曹公所得,劉備乃遣庶歸,欲爲天下者恕人子之情也。曹公亦宜遣允。

後の人の文章にも書かれる(蜀記に引用されている李興の文)

下の文章は三国志諸葛亮伝の注釈にある『蜀記』の引用です。
晋の劉弘が諸葛亮の庵を見学した時に書かせたもので、諸葛亮をたたえる叙事詩的な内容です。
この文章の中で徐庶は「庶先哲之遺光」と言及されています。徐庶が在野の諸葛亮を推薦したことを指しています。

蜀記曰:晉永興中,鎭南將軍劉弘至隆中,觀亮故宅,立碣表閭,命太傅掾犍爲李興爲文曰:「天子命我,于沔之陽,聽鼓鼙而永思,庶先哲之遺光,登隆山以遠望,軾諸葛之故鄉。蓋神物應機,大器無方,通人靡滯,大德不常。故谷風發而騶虞嘯,雲雷升而潛鱗驤;摯解褐於三聘,尼得招而褰裳,管豹變於受命,貢感激以回莊,異徐生之摘寶,釋臥龍於深藏,偉劉氏之傾蓋,嘉吾子之周行。

まとめ

以上、正史三国志とその注釈に記されている徐庶に関する記述を網羅しました。
これを見て分かることは、誰一人として徐庶のことを悪く言っていないことです。
これはすごいことだと思います。

母親が捕らわれたためとはいえ、劉備から曹操に鞍替えしたのですから、もし誰かが少しでも徐庶に対して悪感情を持っていたとすれば、 変節漢のように悪く言うこともいくらでもできたと思うのです。
誰一人そのように言った記録がないということは、徐庶はよほどの人格者だったのだろうと思います。

任侠から足を洗った苦労人で、人の意向をよく考えながら行動した人のようですし、率直にものを言える人でもあったようですから、よほど気持ちのいい人だったのでしょうね。

 

原文引用元:中華書局『三国志