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孫休が息子の名前にオリジナル漢字を使ったことを裴松之が酷評していて笑っちゃう!

三国志 の第三代皇帝 孫休そんきゅう

しょ百家ひゃっかの本を読み尽くそうというほどの読書家で、五経ごきょうはくを立てたり干拓かんたく事業を行ったりと積極的に政治に取り組み、皇帝になる前に厳しく当たってきた臣下に即位後仕返しをすることなく仕えさせた一方、クーデターの疑いのある身内を始末するなど、なかなか意欲的な人物です。

一見すると名君なのでは、と思わせる孫休ですが、子供の名前に自分が作ったオリジナル漢字を使ったことで、三国志の注釈者 はい松之しょうしにめちゃくちゃ馬鹿にされすぎていて、読んでいて笑っちゃいます!

孫休はどうしてオリジナル漢字なんか作ったの?

我が子の名前専用の漢字を作ったよ、なんて言われたら、たしかに馬鹿にされてもしかたないなと思いますよね。

しかしそれにはちゃんと理由があるのです。

前近代の中国では「名」がとても大事にされていて、ひとの実名を軽々しく呼ぶことはできませんし、貴人の名にいたっては書物に記すこともはばかりました。

その人物とまったく関係ない場面でその文字を使う必要がある時には、他の漢字で代用したり、棒を一本多く書いたり少なく書いたりしながら、なんとか貴人の名の文字を記すことを避けるほどでした。

孫休はおそらく、そんなの不便じゃん、と思ったのでしょう。

自分の息子たちがいずれ王か皇帝になることが予想できるからには、日常生活でよく使う文字を名前にするわけにはいけません。

いっそ名前専用の文字を作ってあげようではないかと考えたのでしょう。

孫休が発表したオリジナル漢字

三国志孫休伝の注釈に引用されている『ろく』に、孫休が息子の名前用のオリジナル漢字を発表したみことのりが載っています。

【原文】
人之有名、以相紀別、長爲作字、憚其名耳。禮、名子欲令難犯易避、五十稱伯仲、古或一字。今人競作好名好字、又令相配、所行不副、此瞽字伯明者也、孤嘗哂之。或師友父兄所作、或自己爲。師友尚可、父兄猶非、自爲最不謙。孤今爲四男作名字。太子名𩅦、𩅦音如湖水灣澳之灣、字莔、莔音如迄今之迄。次子名𩃙、𩃙音如兕觥之觥、字𧟨、𧟨音如玄礥首之礥。次子名壾、壾音如草莽之莽、字昷、昷音如舉物之舉。次子名𠅬、𠅬音如褒衣下寬大之褒、字㷏、㷏音如有所擁持之擁。此都不與世所用者同、故鈔舊文會合作之。夫書八體損益、因事而生、今造此名字、既不相配、又字但一、庶易棄避、其普告天下、使咸聞知。
原文引用元:
三国志全文検索
最終閲覧日:2020年5月4日
参照ページURL: http://www.seisaku.bz/sangokushi/chu/chu48.html

【訳】
人に名前があるのは個体識別のためで、成長すればあざなを名乗り、を忌避する。
礼では子の名付けには犯しにくく避けやすいことをもとめており、五十歳で伯仲はくちゅうを称すとする。いにしえには一文字のあざなだったのであろう。
いま人々は競ってよいやよいあざなをつけ、あざなの意味を呼応させているが、実態がそぐわず、めしいに伯明とあざなをつけるようなもので、私はおかしなことだと思っていた。
師、友人、父兄がつけることもあれば自分で名乗る者もある。師や友人ならいいが、父兄はだめだし、自らつけるのは最も傲慢である。
私はここに四人の息子のあざなを定める。
太子の𩅦わん𩅦わんの音はすい湾澳わんいくわんと同じである。あざなきつきつの音は迄今きっきんきつである。
次の子の𩃙こう𩃙こうの音はこうこうと同じである。あざな𧟨けん𧟨けんの音は太玄経たいげんきょう礥首けんしゅけんと同じである。
次の子のもうもうの音は草莽そうもうもうと同じである。あざなきょきょの音は挙物きょぶつの挙と同じである。
次の子の𠅬ほう𠅬ほうの音はほう下寬大の褒と同じである。あざなようようの音は有所ようの擁と同じである。
これらはすべて世に用いられているものと同じではない。古い文書から合成した文字である。
そもそも書の八体がすたれたり発展したりしてきたのには原因がある。今これらのあざなを作ったのは、あざなを呼応させることもなく、あざなは一文字であって、人々が忌避しやすいようにしたのである。広く天下に知らしめよ。

あざなが文字化けしていても気にしないで下さい。どうしても気になる方はWikipediaの「孫休」の項の宗室-子女の部分をご覧下さい。

つまり陛下はこうおっしゃりたいわけですね↓

立派すぎる名前がついていて実態と合ってなかったら笑っちゃうよね。
あざなも二文字もいらないんじゃない?
ボクの息子たちのあざなには文字の意味なんて全然ない新作文字を使うし字も一文字しか使わないから、みんな忌避するのに不便がなくって合理的だよね!

裴松之の酷評がすごい!

この孫休の話のあとに、注釈者 はい松之しょうしはこんなコメントをしています。

【原文】
臣松之以爲傳稱「名以制義、義以出禮、禮以體政、政以正民。是以政成而民聽、易則生亂」。斯言之作、豈虛也哉!休欲令難犯、何患無名、而乃造無況之字、制不典之音、違明誥於前脩、垂嗤騃於後代、不亦異乎!是以墳土未乾而妻子夷滅。師服之言、於是乎徵矣。
原文引用元:
三国志全文検索
最終閲覧日:2020年5月4日
参照ページURL: http://www.seisaku.bz/sangokushi/chu/chu48.html

【訳】
しん 松之しょうしが思うに、春秋しゅんじゅう左氏さしでんに「名は義を制し、義は礼を出し、礼は政を体し、政は民を正す。こうして政は成り民は従う。軽んずれば乱を生ず」という言がなされていることに意味がないはずがない。
孫休は名が犯されにくいようにしたければ名などなくてもいいのに、ありもしない文字を作り出して、ありえない音を制定して、先人たちのならわしに背き、後代にバカをさらした。
自分の墓の土も乾かぬうちに妻子が皆殺しにされたのも当然だ。
春秋左氏伝のふくの言葉が正しかったことがここに証明されたのだ。

つまり裴松之はこう言いたいわけですね↓

春秋左氏伝に立派な名前をつけることから立派な政治ができるって書いてあるのはダテじゃないのよ!
先人のならわしに背いてアヤシゲな漢字をでっちあげるくらいなら名前なんてない方がマシ! バッカじゃない?
自分が死んですぐに妻子が皆殺しにされたのも当然よ!
(※裴松之の文意の要約であり訳者の意見ではありません)

名付けの伝統を無視した孫休をそしりたい気持ちは分かりますが、後代にバカをさらしたとか妻子が皆殺しにされたのも当然とか、そんなに過激な言い方をしないとだめだったんですか裴松之さん……。

いいアイデアだと思うけど……

私の個人的な感覚としては、孫休のアイデアは合理的でいいと思うんです。
名前の忌避は確かに面倒くさいですから、いずれ皇帝か王になる我が子には世間に影響のない名前をつけてあげようというのは、思いやりがあるし、合理的です。
そんな結構なこころみを裴松之はなぜあんなに酷評したのでしょうか。

裴松之が酷評したわけとは

裴松之とうぐんぶんけん春秋時代しんの第二の都ともいうべき曲沃きょくよくがあった場所)の出身で、とうはいと呼ばれる名門につらなる人物です。
数え年わずか八歳にして『ろん』『詩経しきょう』に通じ、長じては非常な博覧として知られました。
歴史に造形が深く、子孫の裴駰はいいんはい子野しやと並んでがく三裴さんはいと呼ばれています。
古典をきちんと学んできた裴松之にとって、太古からの歴史ある風習を不便だからと簡単に変えてしまうことは容認しがたい愚行と感じられたのでしょう。

前近代の中国では古典や伝統は人間生活の根幹をなす非常に重要なものとみられていたので、裴松之の感覚はごく常識的なものでした。
不便だからという理由で伝統を排することは、傲慢、不良、人でなしと見られてもしかたありませんでした。

伝統を吹き飛ばすほどのパワーがなければ新しいことはできない

いかに便利で合理的なアイデアでも、伝統を排して行うからには批判はつきものです。
とはいえ、もし孫休の体制が千年先まで続くほど盤石だったのであれば、俺ルールが天下のルールになりえたでしょう。
しかし孫休の体制は決して盤石ではありませんでした。

孫休の前に帝位についていた孫亮そんりょうは若くして帝位についたため実権を握れず、権臣によって廃位されました。
代わりに皇帝に立てられた孫休も権臣に悩まされ、ほんくわだてられるほどでした。
廃位され王になっていた孫亮が再び皇帝になるという流言もありました。

このように不安定な帝位についていた孫休が新しいことを始めようというのは、非現実的です。

しん皇帝こうていは皇帝が崩御ほうぎょした後にその皇帝にごうをつける習慣について、子が親を、臣下が君主を評価するというとんでもない習慣だとして、諡号をつけることを撤廃し、自分のことは始皇帝、次の皇帝は二世皇帝、その次は三世皇帝とし、以降ずっと続けて行くように決めました。
しかしそのやり方は秦帝国でしか行われず、次のかん帝国では古来の諡号をつける習慣が復活しました。

天下統一をした始皇帝でさえ俺ルールを未来まで続けさせることができなかったのですから、天下の三分の一の呉で不安定な帝位についていた孫休が新しいことを始めるのがいかに非現実的であったか想像にかたくありません。

まとめ

みんなが困らないように子供の名前は自作漢字にするという孫休のアイデアは、思いやりのある考えですし、合理的です。
伝統を大事にする社会において、自分の新しいアイデアで世界を一新し千年先まで受け入れさせるほどの力がなかったことが残念なところです。

孫休よりずっと昔の時代から人名の忌避はやはり頭の痛い問題だったらしく、春秋左氏伝の桓公かんこう六年の記述には、国、官名、山川、疾病、家畜、ぶつ玉帛ぎょくはくの文字は名前にしないこと、という話があります。
先人たちは日常生活に支障のない文字を選んで名前をつけるよう工夫してきたので、おとなしくその伝統を踏襲したほうが無難だったようですね。

孫休は国内の体制をまとめられないまま三十という若さで忽然こつぜんと世を去りました。

すばらしいアイデアが後代に受け入れられず、酷評されてしまった孫休。
博識で気鋭の若き皇帝の悲しい運命を象徴するようなエピソードだと思いました。