MENU

諸葛亮が養子を邪魔にしたなんて信じない!諸葛喬にまつわる謎

諸葛亮しょかつりょうは四十歳を過ぎても嫡子がなく、兄の諸葛瑾しょかつきんの次男である諸葛喬しょかつきょうを養子に迎えました。
諸葛亮が四十七歳の時に諸葛亮の実子の諸葛瞻しょかつせんが生まれました。
養子の諸葛喬は二十五歳という若さで亡くなりました。

Wikipediaで諸葛瞻の生年を見ると227年、諸葛喬の没年を見ると228年となっています。
このことから、諸葛亮は実子が生まれたから養子が邪魔になって始末したのではないかと想像する方を時々見かけます。
私はそれは考えすぎだろうと思っていて、諸葛喬は偶然若くして亡くなったのだろうと思いたい気持ちです。
ところが、正史『三国志』に妙な記述があるのに気付き、おや? と思いました。

諸葛喬の没年がおかしい

正史『三国志諸葛亮伝の後ろのほうにある諸葛喬の伝に、下記のような記述があります。

隨亮至漢中。年二十五、建興元年卒。
【訳】
諸葛亮に従って漢中かんちゅうに至った。二十五歳で、建興けんこう元年に亡くなった。

諸葛喬は諸葛亮漢中かんちゅうに駐屯した時に一緒に漢中に行き、その後に亡くなったそうです。
この「建興けんこう元年」という時期がおかしいです。

建興元年は劉備りゅうびが亡くなり劉禅りゅうぜんが即位し、諸葛亮成都せいとにあって、との外交関係の修復に腐心していた時期です。
諸葛亮すいの表を奉って北伐ほくばつの準備にとりかかり、漢中に駐屯したのは建興五年のことです。諸葛亮伝に「五年、率諸軍、北駐漢中」と記述があります。
諸葛喬が諸葛亮と漢中に行ってから建興元年に亡くなることはありえません。

諸葛喬の没年の記述の直近に諸葛瞻の生年が分かる記述がある

諸葛喬の伝の次には諸葛瞻の伝があります。
諸葛喬の没年に関する記述「隨亮至漢中。年二十五、建興元年卒」のあと、間に42文字はさんで諸葛瞻の生年が分かる記述があります。

建興十二年亮出武功、與兄瑾書曰「瞻、今已八歳、聰慧可愛。嫌其早成、恐不爲重器耳」
【訳】
建興十二年、諸葛亮こうに出た。兄の諸葛瑾への手紙にこう書いた。
「諸葛瞻は今はもう八歳になりました。聡明で可愛いです。早成して重器にならないのではないかと心配です」

建興十二年に、諸葛瞻は八歳だったのですね。
当時の人は年齢を数え年で言いますから、諸葛瞻は建興五年に生まれたことになります。

諸葛喬の没年を「建興元年」と記したのは何かのメッセージなのか?

諸葛亮伝を読んでいれば、諸葛亮が漢中に駐屯したのは建興五年だと分かります。
それに続く諸葛喬の伝で「隨亮至漢中。年二十五、建興元年卒」となっていれば、読者は「諸葛喬の没年が建興元年のはずはないのにどうして元年と書いてあるのだろう?」という疑問を抱くはずです。
その疑問を抱いたまま次の諸葛瞻の伝を読むと、実子の諸葛瞻が建興五年に生まれていることが分かります。

これは、誤記をよそおった陳寿ちんじゅのレトリックのように見えないでしょうか?
「漢中に行った諸葛喬が建興元年に亡くなったわけはないって分かりますよね? おかしいと思いますよね? 私はつまびらかには記せませんがヒントは43文字後にあります」とでも言いたげに見えてしまいます。
43文字後から先を見ると、実子が建興五年に誕生していることが分かるので、実子誕生の直後に養子が若くして亡くなったと記すのは不都合だったのかなぁと考えざるを得ないような構造になっております。

はっきりとは書けない時に臭わせるような記述はするという筆法

誤記をよそおった陳寿のレトリックだなんて考えすぎでしょ、と思う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、中国の歴史書では、往々にして、はっきりと書きづらいことを臭わせるような筆法が使われています。
の第四代皇帝曹髦そうぼう弑殺しいさつされたことを「五月己丑、高貴郷公卒、年二十」という、何があったか全然分からない記述にとどめ、逆に何があったのかみんなに考えさせるような効果が出ていることはよく知られていることですね。

諸葛亮の醜聞にまつわるヒントを残したがるような陳寿には見えない

今まで書いてきたことをひっくり返すようですが、陳寿がわざわざ「建興元年」なんていう明らかにおかしい没年を記してまで諸葛亮に関する醜聞を臭わせるとは思えません。
三国志』はしんの時代に著されましたが、晋はしょくを滅ぼした魏から禅譲ぜんじょうを受けた王朝ですから、蜀のことが悪く書かれていても誰も目くじらをたてないはずです。
もし諸葛亮の醜聞を書きたければ、臭わせるようなことをせずはっきりと書いてしまえばいいだけです。
醜聞が臭わされていると考えるのは不自然です。

また、諸葛亮の伝の後には、陳寿が「諸葛氏集」を晋のていにたてまつった際の奏上文がありますが、そこには陳寿諸葛亮に対する敬愛の念があらわれています。
陳寿がすすんで諸葛亮の醜聞を書きたがるとは思えません。
もし立場上、諸葛亮の醜聞を書く必要があるのであれば、はっきりと書かなければならないでしょうし、はっきりと書かなければならないプレッシャーがどこからもかかっていないのであれば、わざわざ臭わせることもしないと思います。

「建興元年」は「建興六年」の誤記か

三国志集解しっかい』の注釈に、しんの学者しゃくのこんな言葉が書かれています。

公北駐漢中在建興五年,元字誤。思遠之生,即在建興五年也。詳元字當作六。
【訳】
公(諸葛亮)が漢中に駐屯したのは建興五年である。「元」の字は誤りである。
えん(諸葛瞻)が生まれたのは建興五年である。
「元」の字を審らかに考えてみると、「六」であるべきであろう。

なるほど、諸葛喬の没年として書かれている「建興元年」は「建興六年」の誤記ですか。
「元」と「六」、確かに使われているパーツの数が同じで字形も少し似ていますから、ふにゃふにゃっと書いてあれば転記する時に間違って書き写すことは充分ありえますね!

まとめ

諸葛亮が漢中に行ったのは建興五年なのに、諸葛亮に従って漢中に行ってから亡くなった諸葛喬の没年が「建興元年」と『三国志』に書いてあるのはおかしいです。
この明らかにおかしい没年の記述は、「諸葛亮に実子が生まれた建興五年より後に養子の諸葛喬が若くして亡くなったなんてとても書けませんよ!」というメッセージのようにも見えますが、『三国志』を書いた陳寿には諸葛亮の醜聞を臭わせるような記述をする必要もモチベーションもなさそうですから、単純な誤記と見るほうが自然です。
何焯が言うように、「建興元年」は「建興六年」の間違いだろうと思います。
「元」と「六」は形が似ています!

実子の諸葛瞻が生まれた後に養子の諸葛喬が若くして亡くなったというだけの話なら私は何も疑わないところでしたが、「建興元年」なんていう明らかな間違いがあるから「おや?」と思ってしまいました。
本当は「建興六年」と書いてあったんだと言われれば、隠れたメッセージなどを疑わずに済みます。
ああよかった。スッキリ!

※追記:私は最初「三国志全文検索」というサイトで原文を見て「あれっ?」と思ってこの記事を書いたのですが、中華書局の『三国志』や「漢籍電子文献資料庫」というサイトを見たところ「建興元年」のところは「建興(元)〔六〕年」となっていました。何焯の説に従った校勘だそうです。

原文引用元:
三国志全文検索 諸葛亮伝 最終閲覧日:2020年10月11日
 参照URL:http://www.seisaku.bz/sangokushi/35_koumei.html
陳寿撰・裴松之注・盧弼集解・銭剣夫整理『三国志集解』上海古籍出版社 2009.6