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二喬?二橋?大橋小橋の父は橋玄?違う?

三国志の美人姉妹キャラとして知られる二喬
姉の大喬孫策に、妹の小喬周瑜に嫁いだということで、美男美女カップルでまぶしい限りです。
三国志関連の文章を見ておりますと、この二喬の姓が「喬」と書かれていたり「橋」と書かれていたりして混乱したので、整理してみました。

演義では「喬」、正史では「橋」

二喬は『三国志演義』では「喬公」の娘の「大喬」「小喬」となっており、正史の『三国志』では「橋公」の娘の「大橋」「小橋」となっていました。
演義は「喬」で統一されており、正史は「橋」で統一されていて、それぞれの中での混用はありませんでした。
現在目にする三国志関連の文章では、演義をはじめとする物語のキャラクターとしての彼女たちの話をする時は「喬」、歴史上の人物としての彼女たちの話をする時は「橋」で使い分けられているのかもしれませんね。

橋公は太尉の橋玄なのか?

正史に出てくる「大橋」「小橋」について、何か注釈がついているかもしれないと思い『三国志集解』の該当箇所を見てみました。
「橋公」は太尉の橋玄であるという説や、地理的な点から考えて橋玄ではないのではないかという考察とかが書いてありました。
下に原文を引用し、そのあとに訳を書いておきましたので、ご興味のある方はどうぞ↓

【原文】
趙一清曰:「寰宇記巻百二十五:舒州懐寧縣有橋公亭,在縣北隔皖水一里。漢末,橋公有二女,孫策與周郎各納其一女,今亭溪爲雙溪寺。」
沈欽韓曰:「橋公者,太尉橋玄也。漢制爲三公者方稱公。」
弼按:孫權呼張昭曰張公,時人呼程普爲程公,世人呼龐德公爲龐公,河南守吴公治平爲天下第一,見漢書賈誼傳,于公治孝婦󠄁獄,郡中大敬重于公,見漢書于定國傳。是皆不必三公始稱公也。又按本傳橋公二女爲攻皖時所󠄁得,據寰宇記橋公爲舒州懐寧人,即漢之盧江郡皖縣人,范書橋玄傳玄爲梁國睢陽人,兩不相涉。果爲玄女,則阿瞞方受知於玄,銅雀春深,早已知願相償,伯符、公瑾不得専此國色矣。范書、陳志絶無一字及之,沈説之誤無疑矣。又按:三國疑年録云:「周瑜破皖城,納橋太尉小女,在建安三年,時瑜年二十四歳。橋太尉薨於靈帝光和六年,年七十五。縦使二橋爲太尉七十外所󠄁生,其嫁之年亦在二十以外矣。建安十三年,周瑜赤壁之戰時,小橋年約已三十矣。曹公最感橋太尉知己之恩,豈有鎖其二女之心? 即使平吴,斷無此事,牧之之詩,是爲失言。」
引用元:『三国志集解』盧弼(集解)、銭剣夫(整理) 上海古籍出版社 2009.6
引用箇所:巻八 三二六二ページ

【訳】
趙一清いわく「『寰宇記』巻百二十五によれば、舒州の懐寧県に橋公亭がある。県の北、皖水から一里の地点である。漢の末に橋公にふたりの娘があり、孫策と周郎がそれぞれ一人をめとった。現在、亭の渓流は双渓寺となっている」
沈欽韓いわく「橋公とは太尉の橋玄である。漢代のならわしでは三公となった者は公と称した」
わたくし盧弼の考察によれば、孫権は張昭を張公と呼び、当時の人々は程普を程公と呼び、世間の人々は龐徳公を龐公とし、河南郡守の呉公の政治が天下第一であるという表現が『漢書』賈誼伝にあり、于公が孝婦の獄の案件のおとしどころを整理して郡中の者たちが大いに于公を尊敬し重んじたという記述が『漢書』于定国伝にある。これらはみな三公となって初めて公と称したわけではない。また、三国志本文で橋公の二人の娘を皖城を攻めた時に得たとなっており、『寰宇記』によれば橋公は舒州の懐寧の人、つまり漢の盧江郡皖県の人である。范曄の『後漢書橋玄伝によれば橋玄は梁国睢陽の人であり、つじつまが合わない。仮に橋玄の娘であったとすれば、阿瞞(曹操)は橋玄の知り合いなのだから、銅雀の春深き頃には曹操はとっくに彼女たちを知って橋公からもらいうけていたはずで、伯符(孫策)と公瑾(周瑜)はこの天下の美女たちを自分のものにすることはできなかったはずである。『後漢書』も『三国志』もこのことへの言及は一字もなく、沈欽韓の説が誤りであることは疑いない。また、『三国疑年録』にはこうある「周瑜は皖城を破り、橋太尉の小女をめとった。建安三年のことで、このとき周瑜は二十四歳である。橋太尉は霊帝の光和六年に薨去した。七十五歳であった。仮に二橋が太尉の七十歳以上の時に生まれたとしても、嫁いだのは二十歳以上となる。建安十三年、周瑜赤壁の戦いの時には小橋は三十歳過ぎとなっている。曹公は橋太尉の知己の恩をとても感じているのだから、どうして橋公の二人の娘を幽閉しようなどと思うだろうか。もし呉を平らげても断じてそんなことをするはずがない。杜牧之の詩は失言である」

ちなみに杜牧之の詩とはこれです↓

杜牧 赤壁

折戟沈沙鐵未銷
自將磨洗認前朝
東風不與周郞便
銅雀春深鎖二喬

折戟せつげきすなに沈みて鉄いまだ銷せず
自ら磨洗を将て前朝を認む
東風周郎に便をあたえざれば
銅雀春深くして二喬とざさん

折れた戟が砂に沈んでいる 鉄はまだ錆びていない
磨いてみると前の時代のものだと分かった
東風が周瑜のために吹かなければ
銅雀台の春深き頃に二喬は幽閉されていただろう

まとめ

二喬の苗字は演義では「喬」、正史では「橋」
・正史の橋公を太尉の橋玄であるとする説があるが『三国志集解』の著者の盧弼はその説を採らない
以上