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李盛はどんな人?三国志にたった一箇所の登場シーンはなんと処刑者リスト!

三国志に登場するせいという人物をご存知でしょうか。
この人は三国志演義には登場せず、正史三国志にも一回しか出てきません。
一体どんな人なのでしょうか。

李盛の登場シーン

李盛はしょくの第一次北伐における街亭がいていの戦いに関する場面で登場します。
どんな場面か見てみましょう。

【原文】
謖舍水上山、舉措煩擾、平連規諫謖、謖不能用、大敗於街亭。衆盡星散、惟平所領千人、鳴鼓自持、魏將張郃疑其伏兵、不往偪也。於是平徐徐收合諸營遺迸、率將士而還。丞相亮既誅馬謖及將軍張休・李盛、奪將軍黃襲等兵、平特見崇顯、加拜參軍、統五部兼當營事、進位討寇將軍、封亭侯。
(原文参照元:中華書局『三国志王平伝)
【訳】
馬謖ばしょくは水を捨てて山に上り、行動ははんであった。
王平おうへいはしきりに馬謖を諫めたが、馬謖王平の言を用いることができず、街亭で大敗した。
軍勢は散り散りになり、王平が率いている千人だけが鼓を打ち鳴らして踏みとどまっていた。
の将軍張郃ちょうこう伏兵ふくへいがあるのではないかと疑って迫らなかった。
そこで王平は諸営の逃げ散った軍勢を徐々に収集し、将兵を率いて帰還した。
丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょう馬謖および将軍張休ちょうきゅうせいを処刑し、将軍黄襲こうしゅうらの兵を奪った。
王平は特に敬われて顕彰され、参軍さんぐんの官を加えられ、五部の兵を統率し、軍営の仕事に当たることも兼ね、位は討寇とうこう将軍に昇進し、亭侯ていこうほうじられることになった。

街亭の守備隊が崩壊し、戦後処理で馬謖らが処刑された一方、王平は顕彰されたという描写です。
李盛が登場するのはこの一文です↓

丞相亮既誅馬謖及將軍張休・李盛、奪將軍黃襲等兵

馬謖と一緒に処刑された人物として、将軍張休ちょうきゅうせい、とありますね。
登場シーンはここだけです!

李盛とはどんな人?

唯一の登場シーンがまさかの処刑者リストに名前があるだけとは、びっくりです!
一体どんな人だったのでしょうか。
とは言え、全く情報がありません。
後漢書ごかんじょ』には登場しませんし、『資治しじがん』には「亮既誅馬謖及將軍李盛、奪將軍黃襲等兵」とあるだけです。

ようこく』巻十一にはこんな記述があります↓

【原文】
宓六子皆英挺秀逸、號曰六龍。長子賜、字宗碩、州別駕、舉秀才、汶山太守。少與東海王司馬元超友昵、每書詩往返、雅有新聲。少子興、字雋碩、太傅參軍。幼子盛、囗碩、寧浦太守。
原文引用元:
中国哲学書電子化計画 華陽国志 巻十一
最終閲覧日:2020年5月7日
参照ページURL: https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=696448
【訳】
ふくには六人の息子がおり、みな優秀で、六龍と号していた。長男のちょうは字を宗硯そうせきといい、州の別駕べつが秀才しゅうさいに挙げられ、汶山びんざん太守たいしゅとなった。若くして東海王とうかいおう司馬しばげん昵懇じっこんで、詩文のやりとりをするたびにいつも新作であった。弟のこうは字を雋硯しゅんせきといい、たい参軍さんぐんとなった。その弟のせい口硯こうせきといい、ねい太守となった。

ふくの息子に李盛という人がいたんですね。
しかし李宓の息子の李盛さんは三国志を統一したしん王朝の中でねい太守たいしゅを務めているので、街亭の戦後処理で処刑されている李盛さんとは別人ですね!

まとめ

三国志周辺で李盛という人は二人いるようですが、正史三国志に登場する李盛さんは、街亭の戦後処理で処刑された将軍です。
記述は「丞相亮既誅馬謖及將軍張休・李盛、奪將軍黃襲等兵」のみです。

どんな方だったんでしょう。
将軍というからには、きっと立派な方だったんでしょうね。
街亭の戦いが蜀にとって不都合な経過をたどった戦いでなかったとしたら、もっと詳しい記述を見ることができたかもしれませんね。