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李衡はどんな人?権力を恐れぬ庶民出身の能吏でミカンを資産として残した恐妻家

孫権そんけんに取り立てられ、孫休そんきゅうの代にはえん将軍にまで昇ったこう
兵卒の家の出身で、伝統にとらわれない考え方ができる人だったようです。
彼の事績はしん習鑿歯しゅうさくしの手による『襄陽耆旧記じょうようききゅうき』にまとまっていますので、その翻訳をしながら人物像を見てみましょう。

兵卒の家の出の流れ者。人物鑑定家に才を認められ名門の婿に

【原文】
李衡,字叔平,襄陽卒家子也,漢末入吳,為武昌庶民。聞羊道有人物之鑒,往乾之。道曰:「多事之世,尚書劇曹郎才也。」習竺以女英習配之。
【訳】
こうあざな叔平しゅくへいという。襄陽じょうようの兵卒の家の子である。
かんの末年にに入り、武昌ぶしょうの庶民となった。
羊道ようどう(羊衜ようどう)に人物鑑定の特技があると聞き、行って鑑定してもらうと、「乱世において尚書しょうしょの属官となって働くことのできる才である」とのことだった。
習竺しゅうじくは娘の英習えいしゅうを李衡の嫁にした。

この話を理解するには当時の人材登用法を知っている必要があるかと思います。
当時の官吏登用法は「郷挙里選きょうきょりせん」というもので、これは各土地の有力者が地元で評判の高い人物を推薦し、そこから官吏が登用されるというものでした。

このため、有名な人物鑑定家からいい評価をもらうことは出世の近道でした。
兵卒の家の出身で流れ者の李衡は、なんとか出世したいものと、わざわざ人物鑑定家に評価してもらいに行ったのでしょうね。

習竺しゅうじくという人物は襄陽じょうようの習氏につらなる人物で、襄陽の習氏といえば地元に根を張った大族です。
李衡の評判を聞いて、有望な若者だと思って娘をめあわせることにしたのでしょう。

権力を恐れぬ直言で大抜擢される

【原文】
是時,校事呂壹操弄權柄,大臣畏逼,莫有敢言,道曰:「非李衡無能困之者。」遂共薦為郎。權引見,衡口陳壹奸短數千言,權有愧色。數月,壹被誅,而衡大見顯擢。
【訳】
この時、こう呂壱りょいつが権勢をほしいままにしており、大臣たちはおそれて誰もが口を閉ざしていた。
羊道が「李衡の他に呂壱を追い詰められる者はいない」と言ったため、李衡は推挙すいきょされ郎官ろうかんになった。
孫権そんけん(の皇帝)が李衡と会見すると、李衡は呂壱の悪さを数千語申し述べ、孫権は(呂壱を重用していることを)じた。
数ヶ月で呂壱は処刑され、李衡は大いに抜擢された。

呂壱は孫権のもとで権勢を振るい、私怨で人を陥れるようなこともしており、評判の悪い人物でした。
人々がその権勢を恐れて摘発をためらっていた悪事を李衡がズバズバと述べたので、孫権は呂壱を任用していたことを羞じ、数ヶ月後には呂壱を処断して李衡を抜擢したんですね。

李衡は庶民出身の流れ者で、しがらみがないから何でもズバズバと言えたのかもしれません。

諸葛恪(しょかつかく)の司馬として軍府を取り仕切る

【原文】
後常為諸葛恪司馬,幹恪府事。
【訳】
後にはずっと諸葛恪しょかつかく司馬しばとなっており、諸葛恪の軍府を取り仕切った。

諸葛恪しょかつかく領荊揚州牧りょうけいようしゅうぼく督中外諸軍事とくちゅうがいしょぐんじという、呉の軍権をほとんど全部握ってるんじゃないかというくらいまで昇ったスーパーマン(?)です。
その諸葛恪の軍府の仕事を取り仕切ったというんですから、李衡はよほどの人ですね。
この部分、原文では「幹恪府事」とありますが、「幹」とは主幹の幹です。

諸葛恪の使者として蜀(しょく)を訪問。姜維(きょうい)に呉との共闘を説く

ここでちょっと『襄陽耆旧記じょうようききゅうき』を離れて、三国志諸葛恪伝の注釈に引用されている『漢晋春秋かんしんしゅんじゅう』の文章を挟ませて下さい。

【原文】
漢晉春秋曰:恪使司馬李衡往蜀說姜維,令同舉,曰:「古人有言,聖人不能爲時,時至亦不可失也。今敵政在私門,外內猜隔,兵挫於外,而民怨於內,自曹操以來,彼之亡形未有如今者也。若大舉伐之,使吳攻其東,漢入其西,彼救西則東虛,重東則西輕,以練實之軍,乘虛輕之敵,破之必矣。」維從之。(原文引用元:中華書局『三国志』より諸葛恪伝注引『漢晋春秋』)
【訳】
漢晋春秋かんしんしゅんじゅう』にこうある。
諸葛恪は司馬の李衡を蜀に派遣し、ともに(に対する)軍事行動をおこそうと説かせた。
「昔の人の言葉に、聖人も時を操ることはできない、時が来たら失ってはならないとあります。
いま敵(魏)の政治は私物化されており、内外が猜疑しあっていて、外においては兵の士気はくじけ、内においては民がえんしております。
曹操そうそう以来、今ほどひどい状態になったことはありません。
もし大挙して(ともに)これを伐つならば、呉はその東を攻め、かん(蜀)はその西に入り、敵が西を救いに行けば東が手薄となり、東を重んじれば西が軽くなります。
こうして充実した軍で敵の虚に乗じてこれを伐つならば、これを破ることは必定です」
姜維はこれに従った。

諸葛恪の伝言を届けただけなのか李衡が説得したのか分かりませんが、司馬として軍府を切り回している李衛が行ったからには、単なる伝言係ということもないでしょう。
手紙を見せながら質疑応答でもして説得したのではないでしょうか。
これで蜀の姜維は呉と協調して魏への軍事行動を起こすことを承諾したとありますね。

かつてビシバシやった孫休が皇帝に即位。逃亡を考えるも妻に止められる

さて、『襄陽耆旧記じょうようききゅうき』の翻訳に戻ります。

【原文】
恪被誅,求為丹楊太守。時孫休在郡治,衡數以法繩之。英習每諫曰:「賤而臨貴,疏而間親,取禍之道!」衡不從。
【訳】
諸葛恪が誅殺ちゅうさつされると、求めて丹楊たんよう太守たいしゅとなった。
このとき郡の役所がある街に孫休(呉の二代皇帝孫亮そんりょうの異母兄)がおり、李衡はしばしば法で孫休を取り締まった。
英習(李衡の妻の)はそのたびに「せんの身でありながら高貴な人とたいして、他人でありながら肉親の間に割って入るなんて、わざわいへの道を選ぶようなものよ」といさめたが、李衡は従わなかった。

李衛は庶民出身で、実務能力でのし上がってきた人です。
相手が貴人であろうとも、法にのっとってバリバリ裁いていたのでしょう。
一方、奥さんの習英習は名門の出ですから、偉い人同士の手心を加えた付き合い方を肌で知っていたのでしょう。
あんたそんなやり方で大丈夫なの、と夫を心配していたようです。
訳を続けます。

【原文】
會休立,衡從門入,英習逆問曰:「何故有懼色?琅琊王立耶?」衡曰:「然。不用卿言,以至於此。」遂白其家客欲奔走魏。英習固諫曰:「不可!君本庶民耳,先帝相拔過重。既數作無禮,而不遠慮,又複逆自猜嫌,逃叛求活,以此北歸,何面見中國人乎?」
【訳】
孫休が皇帝に立てられたとき、李衡が家に帰ると迎えに出た英習はこう聞いた。
「なにをびくびくした顔しているの?琅邪王ろうやおう(孫休)が皇帝に立てられたの?」
「そうだ。お前の言うことを聞かなかったばかりにこんなことになってしまった」
こう答えると、李衡は家族や食客に向かって、魏へ亡命しようと思うと伝えた。英習は断固としていさめた。
「だめよ。あなたはもとはただの庶民で、先帝に抜擢ばってきされて分に過ぎた重用を受けただけ。これまでいくつもの無礼をはたらき、先のことも考えず、今また自らの猜疑心にかられて逃亡して生き延びようとしているけれど、こんなことで北(魏)に帰順しようとしたって、どの面さげて中原ちゅうげんの人に会えるっていうの?」

奥さんの習英習は顔色を見ただけで何があったか察する勘の良さ、そして言うことがなかなか手厳しいですね。
日頃ビシバシやっていた孫休が皇帝になったら自分は無事では済まないと慌てて亡命を考える李衡に、あんたはもともと大したもんじゃないのに疑心暗鬼で逃げ出したって魏の人はあんたのことなんか相手にしないよ、とバッサリです。
訳を続けます。

【原文】
衡曰:「計何所出?」英習曰:「琅邪王素好善慕名,博學深廣,多見以德抱怨之義。今初立,方欲自顯於天下,終不以私嫌殺君明矣。君意自不了者,可自囚詣獄,表列前失,顯求受罪。如此,乃當逆見優饒,非但直活而已。」
【訳】
李衡「どうしよう」
英習「琅邪王ろうやおうはふだんから善を好み名声を慕う人で、広くて深い学識もあるから、怨みに対して徳で報いる義をよく知っているでしょう。いまは皇帝に立てられたばかりで天下にいい顔をしたいと思っているところだから、私怨であなたを殺したりしないに決まっています。意味が分からないなら自分から獄に入って過去のあやまちを述べて罪を受ける態度を示せばいいわ。こうすれば逆に優遇されて、ただ命がつながるだけでなくもっといいことになる」

孫休は賢いから、臣下たちが安心して仕えてくれるようにするために、私怨のある人物のことはわざと厚遇するはずだ、という読みです。
亡命するどころか厚遇されるわよラッキーでしょ、という話ですね。
訳を続けます。

【原文】
衡從之。果下令曰:「丹楊太守李衡,以往事之嫌,自拘有司。夫射鉤、斬磲,在古為忠。遣衡還郡,勿令自疑。」加威遠將軍,援以棨戟。
【訳】
李衡はこれに従った。すると案の定、このような令が下された。
「丹楊太守李衡はかつての嫌疑をもって自ら司法に捕らわれた。射鉤斬磲(むかし管仲かんちゅうが自分の仕えている公子のために競争相手の公子を矢で狙った故事)は忠とされた(矢で狙われた公子は後に君主となったが管仲のことは当時のあるじに忠をつくしたとして許した)。李衡を郡に戻し疑念を解かせよ」
李衡はえん将軍の位を加えられ、棨戟けいげきが授けられた。

英習の読みが当たって威遠将軍になり、棨戟けいげきの使用を許されるという特別待遇までゲットしました。
これはもう英習には頭が上がりませんね。

資産運用(?)に理解のない英習

【原文】
衡每欲治家,英習不聽。後密遣客十人,於武陵龍陽泛洲上作宅,種柑桔千株。臨死,敕兒曰:「汝母每惡我治家,故窮如是。然吾州里有千頭木奴,不責汝衣食,歲上一匹絹,亦可足用耳。」
【訳】
李衡はいつも家産の経営をしたいと思っていたが、英習は耳を貸さなかった。
後に食客十人を武陵龍陽ぶりょうりゅうよう泛洲はんしゅうにこっそり派遣して荘園を築かせ、柑橘みかん千株を植えさせた。
臨終の際、息子にこう伝えた。
「私が家産の経営をしようとするとお母さんがいつもいやがるから家はこんなに貧乏なのだが、私の州には千頭の木の奴隷がいて、衣食の心配をしてやる必要がない上に、毎年一匹の絹を献上してくれるから家計の足しになるだろう」

英習は名門の出なので、資産運用なんてそんなみっともないことはおやめなさい、とでも言っていたのでしょう。
当時は名門の人達は食い詰めても教養と人脈で生きていけましたから、英習の感覚はその出自からすれば常識的なものだったでしょう。
一方、李衡は庶民の出ですから、何があっても困らないように資産をコツコツ増やしたいと思っていました。
李衡は名門の出の英習に頭が上がらないので、でも資産は大事だぜ? と思いながらも面と向かって自分のやりかたを押し通すことができず、ヘソクリのようにしてこっそり柑橘みかん農園を作ったようです。
夫婦の価値観の違いと、李衡の恐妻家ぶりが分かって面白い話ですね。
訳を続けます。

【原文】
衡亡後二十於日,兒以白母,母曰:「此當是種柑桔也,汝家失十戶客來七八年,必汝父遣為宅。汝父恆稱太史公言,『江陵千樹桔,當封君家』。吾答曰:」士患無德義,不患不富,若貴而能貧,方好爾。用此何為!『「吳末,衡柑桔成,歲得絹數千匹,家道富足。晉咸康中,其宅址枯樹猶在。
【訳】
李衡が亡くなってから二十日あまり経ち、息子は母にこの話をした。
母はこう言った。
「それは柑橘みかんを植えたのよ。十戸の食客がいなくなって七、八年経つからきっとお父さんが荘園を作らせたんでしょう。
お父さんはいつもたいこう(司馬しばせん)の『江陵こうりょう千樹のみかん、封君の家に当たる』という言葉をたたえていたからね。
私は『士は徳義がないことを憂えて財産が無いことを憂えないもの。もし貴くして貧しくあればそれはまさによいことなのよ。柑橘みかんなんか植えて何になるのよ』と言っていたんだけど」
呉の末年には李衡の柑橘みかんは成長し、毎年数千匹の絹を得ることができ、家は豊かになった。
しんかんこう年間にもその荘園の跡地にはみかんの樹がまだあった。

英習は、夫がなんかやってるなぁと気付いていても、黙ってやらせておいたんですね。ミカンなんか植えて何になるのさみっともない、と思いながら。
李衡は李衡で、妻に面と向かって反発はできなくても、しかし財産は大事だぜ? と思いながらこっそりやっていたんですね。

名士の価値観では徳に磨きをかけ財産は気にかけず清貧であることが美徳でしたから、英習からしてみれば何やってるのさみっともない、という感覚だったと思います。
いつまでも庶民感覚の抜けない旦那だなぁと思いながら、でも黙認して連れ添ったあたりが面白いですね。

このあたりはそれぞれの出自による価値観の違いが際立っていて面白いです。

まとめ

兵卒の家の出でありながら才覚一つで成り上がった李衡と、名門の娘ならではの機知で李衡を支えた習英習。
李衡が英習に頭の上がらない様子や、二人の価値観の相違が分かって面白い話でしたね。
習英習は「あんたは庶民の出で大したことないんだから」と辛口ながらも、しっかりと李衡を助けたよい奥さんだと思いました。
現代にもこういう夫婦はありそうで、なんだか親しみがわきますね。

『襄陽耆舊記』原文引用元:中国哲学書電子化計画-襄陽耆舊記
最終閲覧日:2020年5月9日
参照ページURL: https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=691830