勢力の維持が上手くいかず、戦いに敗れて落ち延びる途中で亡くなりました。
三国志ファンの間で時々耳にする話として、袁術が亡くなる直前に「蜂蜜がなめたい」と言ったという噂があり、その亡くなり方を小馬鹿にしつつも愛するというニュアンスで「蜂蜜皇帝」と呼ばれたり「ハニーモンキー(※)」と呼ばれたりしているのを聞いたことがあります。
(※)モンキーは
しかし歴史書によれば、袁術は亡くなる前に「蜂蜜がなめたい」とは言っておりません。
本日は私の手元にあるいくつかの本や漫画を見比べながら、袁術の最期について考えてみます。
- 正史三国志には蜜の「み」の字もない
- 正史三国志の注釈『呉書』にある「蜜漿」の話
- 三国志演義では「蜜水」をよこせと命じてコックに反発されるダメ皇帝
- 吉川英治『三国志』でも「蜜水」を求めるが、心根はピュア
- 横山光輝「三国志」では「水」を求めて目の前でこぼされ、人の心がはなれていたことを知り嘆く
- 「蒼天航路」では「蜂蜜がなめたい」と言いながら死ぬ猿
- まとめ
正史三国志には蜜の「み」の字もない
正史三国志には、蜂蜜への言及はありません。
【原文】
荒侈滋甚,後宮數百皆服綺縠,餘粱肉,而士卒凍餒,江淮閒空盡,人民相食。術前爲呂布所破,後爲太祖所敗,奔其部曲雷薄、陳蘭于灊山,復爲所拒,憂懼不知所出。將歸帝號於紹,欲至青州從袁譚,發病道死。
(原文引用元:中華書局『三国志』)
【訳】
(袁術の)荒淫 奢 侈 はますます甚だしくなり、後宮には数百人が綺縠 を着ており、よい米と肉はありあまっていた。
一方、士卒は飢え凍え、江北 淮南 は食糧が尽き、人と人が食らいあった。
袁術はまず呂 布 に敗れ、その後曹操 にも敗れた。灊山 にいた部下の雷薄 と陳蘭 のところへ逃走したが、そこでも受け入れてもらえず、憂いと懼 れでどうすればよいか分からなかった。袁紹 に帝の位を譲って青州 に行き袁譚 の下につこうとしたが、病気になり、道中で死亡した。
正史三国志の注釈『呉書』にある「蜜漿」の話
正史三国志の先程の部分についている注釈に『
【原文】
吳書曰;術既爲雷薄等所拒,留住三日,士衆絕糧,乃還至江亭,去壽春八十里。問廚下,尚有麥屑三十斛。時盛暑,欲得蜜漿,又無蜜。坐櫺牀上,歎息良久,乃大咤曰:「袁術至于此乎!」因頓伏牀下,嘔血斗餘而死。
(原文引用元:中華書局『三国志』)
【訳】
呉書にいわく。
袁術は雷薄らに拒まれ、三日駐留していたが、兵糧が尽きたので引き返し、江亭 に至った。寿春 から八十里の地点である。
厨房にたずねると、麦屑が三十斛 あるという。
暑い盛りで、蜜漿 (はちみつの入った飲み物)を所望したが、蜜はなかった。櫺牀 (柵の付いた長いす兼ベッド)に座り、久しく嘆息していたが、大きな声で「袁術はここに至ったか」と言うと、牀 の下に倒れて一斗余りも血を吐いて死んだ。
ここには「
暑くて疲れた時に甘い飲み物が欲しくなる気持ちは分かります。
「コックよ、蜂蜜ドリンクは作れるかい?」
「いえ蜂蜜がございません」
「そうかぁ。だよね☆」
で終わればなんでもない会話だったと思いますが、その直後に亡くなってしまったから、辞世の句が ”蜂蜜ドリンク飲みたい” なのか、という、ちょっとみっともない感じになってしまっております。
『呉書』は歴史書ですが、古代中国の歴史書は出来事をありのままに公平に記述するというスタンスで書かれるものではないので、この部分の信憑性は100%ではありません。
兵糧に事欠くような時に蜂蜜ドリンクは無理でしょ、という、空気の読めないダメ皇帝ぶりを演出するために作られたエピソードくさい雰囲気がありますね……
「袁術はここに至ったか」と叫んで一斗余りも血を吐いて死んだという亡くなり方もどうも作り物めいた感じがいたします。
三国志演義では「蜜水」をよこせと命じてコックに反発されるダメ皇帝
三国志演義でも蜂蜜ドリンクを所望するシーンがあります。
【原文】
術嫌飯粗,不能下咽,乃命庖人取蜜水止渴。庖人曰:”只有血水,安有蜜水!” 術坐於床上,大叫一声,倒於地下,吐血斗余而死。時建安四年六月也。後人有詩曰:
漢末刀兵起四方,無端袁術太猖狂。不思累世為公相,便欲孤身作帝王。強暴枉誇伝国璽,驕奢妄説応天祥。渴思蜜水無由得,独臥空床嘔血亡。
原文引用元:『三国志演義』山東文藝出版社 1991年12月 ※文字は日本の漢字に改めました。
【訳】
袁術は食事がもそもそして口に合わず、飲み込むことができなかった。
そこでコックに、渇きを止めたいから蜂蜜水を持ってくるようにと命じた。
コックはこう言った。
「渇きを止めるには血水ならありますが、蜜水などありますものか」
袁術は床 の上に座って一声叫ぶと、地べたに倒れて血を一斗余りも吐いて死んだ。時に建安 四年六月である。
後の人の詩にこうある。
漢 の末に戦乱が四方に起こり
袁術は狂態をさらした
代々公や相の家であることを忘れ
ほしいままに帝王となった
横暴にも伝国の璽 をもてあそび
贅沢をして天祥 に応じているのだと言いはり
渇して蜜水を求めても由 なく
空っぽの床 に一人伏して血を吐いて死んだ
食事が口に合わないというわがまま要素が加わっていること、蜂蜜ドリンクを『呉書』では「欲す」だったのが「命ず」に変わっていること(※)、目下のコックから「血水ならありますが」と手厳しく言われる部分が加わっていることなどで、『呉書』よりも三国志演義のほうが袁術のダメ皇帝ぶりが加速していますね。
そのうえ袁術のダメ皇帝ぶりを詠んだ詩まで付けられる始末です。
そして、『呉書』にはあった「袁術はここに至ったか」という英雄の最期っぽいセリフが三国志演義ではカットされてしまっております!
これではますます「蜂蜜ドリンク飲みたい」が辞世の句ではありませんか(泣)
(※)「命ず」の部分は、現在普及している三国志演義の版本である
【李卓吾本】渴乃求蜜水止渴 【毛宗崗本】乃命庖人取蜜水止
吉川英治『三国志』でも「蜜水」を求めるが、心根はピュア
日本における三国志物語受容のバイブル的な存在である吉川英治『三国志』にも蜜水の話はあります。
袁術は一族の老幼や、日頃の部下も惜しげなく捨てて逃げた。
だが幾日か落ちて行くうち、携 えていた兵糧もなくなってしまった。袁術は麦の摺屑 を喰って三日もしのんだがもうそれすらなかった。
餓死するもの数知れぬ有様である。あげくの果て、着ている物まで野盗に襲われてはぎ取られてしまい、よろ這 う如く十幾日かを逃げあるいていたが、顧みるといつか自分のそばには、もう甥の袁胤 ひとりしか残っていなかった。
「あれに一軒の農家が見えます。あれまでご辛抱なさいまし」
もう気息奄々 としている袁術の手を肩にかけながら、甥の袁胤 は炎天の下を懸命にあるいていた。
二人は餓鬼のごとく、そこの農家の厨 まで、這って行った。袁術は大声でさけんだ。
「農夫農夫、予に水を与えよ。……蜜水 はないか」
すると、そこにいた一人の百姓男が嗤 って答えた。
「なに。水をくれと。血水 ならあるが、蜜水などあるものか。馬の尿 でものむがいいさ……」
その冷酷なことばを浴びると袁術は両手をあげてよろよろと立ち上がり、
「ああ! おれはもう一人の民も持たない国主だったか。一杯の水をめぐむ者もない身となったか」
大声で号泣したかと思うと、かっと口から血を吐くこと二斗、朽ち木の仆れるがように死んでしまった。
「あっ伯父上」
袁胤はすがりついて、声かぎり呼んだが、それきり答えなかった。
引用元:吉川英治『三国志』臣道の巻 青空文庫 最終閲覧日:2020年5月14日
参照ページURL: https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52413_51064.html#midashi1520
ここでは追い詰められた可哀相な袁術の姿が描写されていますね。
国主としてちゃんとやっていたつもりだったけれどもいろいろ間違えていたかもしれない、と気付きながら亡くなる、心根がピュアな袁術が描かれています。
『呉書』にあった「袁術はここに至ったか」というセリフは三国志演義でカットされましたが、吉川英治『三国志』では「ああ! おれはもう一人の民も持たない国主だったか。一杯の水をめぐむ者もない身となったか」という形で復活しています。
吉川先生は袁術をダメ皇帝として強調することはせず、誤って可哀相な末路をたどる一人の人間として描いているようです。
吉川英治『三国志』は三国志演義の江戸時代の翻訳本『通俗三国志』を主に参照しながら書かれているそうですが、他の資料の影響(演義でカットされている「袁術はここに至ったか」の要素)や、吉川先生独自の味付けがありますね。(『通俗三国志』のこの部分は三国志演義李卓吾本と変わりませんでした)
横山光輝「三国志」では「水」を求めて目の前でこぼされ、人の心がはなれていたことを知り嘆く
吉川英治『三国志』を主に参照しながら描かれた漫画の横山光輝「三国志」では、袁術が欲しがるのが蜂蜜ドリンクではなく「水」になっています。
(
袁胤 と支え合ってボロボロになりながら一軒の農家の戸をたたく袁術。にこやかな表情の男性が出てくる)
「どなたかね」
「帝の袁術じゃ み みずを も もって参れ」
(突然表情を変える男性。水の入った瓶 をつかんでひっくり返し、水を地べたにぶちまける)
「ううっ こ これは」
「さっきまで水はあったがね いまなくなっちまった
血ならまだ少しはからだに残っているがね
それ以外はみんなおまえに吸いとられてしまったからな
こんどはおれのからだをきりきざんで本当の血まで吸いとりなさるのかね」
「おおお」
(ガクッと地べたに膝をつく袁術)
「おれはもう一人の民ももたぬ国王だったのか
水の一杯もめぐんでもらえぬ国王だったのか
そこまで人の心ははなれていたのか」
(血を吐いてうずくまる。袁胤が大声で呼ぶ)
「叔父上 叔父上」
(ナレーション:袁術の返答はなかった これが野望おおき袁術の最期だった)
せりふ引用元:横山光輝「三国志」(潮出版社)15巻p.200 ルビは割愛
皇帝を称して君臨してきた自分が人々からどう思われているかに気付かず「帝の袁術じゃ」と自称してしまう袁術の浮き世離れした感覚と、袁術に対する民の怨嗟が際立っていますね。
袁術が求めるものを「蜜水」ではなく「水」、つまり人としての情があれば当然もらえそうなものに書き換え、目の前に水があるにもかかわらず、お前にだけはやるものかとわざわざ
これは今まで挙げてきたどの本にもない、横山光輝先生の独自の描写ですね。
そして、袁術の亡くなり方は、人の心がここまで離れていたことにショックを受けたことが原因のようになっています。
吉川英治『三国志』では「一人の民も持たない国主」という落ちぶれ方にショックを受けているように見えましたが、横山先生の袁術は、人の心をつかむことができていなかった自分を悔いているかのようです。
「蒼天航路」では「蜂蜜がなめたい」と言いながら死ぬ猿
連載開始当初に世間で親しまれていた三国志物語がおおむね三国志演義ベースであったことに異をとなえるかのように歴史書を参照しながら書かれた王欣太の漫画「蒼天航路」(原案:李學仁)では、袁術の最期は一コマにまとめられています。
袁術が曹操との戦いに敗れた場面を描いたコマで、皇帝用とおぼしき傘のついた戦車の上で耳をふさいで目をつぶり、縮こまってふるえている、手足の形がチンパンジーになっている袁術と、それを見てどん引きしている妃のような二人の女性。その三人が乗っている戦車の背景には
そのコマに、こんなナレーションが書かれています。
袁術
字 を公 路 この後も彼の行動は各地の諸侯を惑わせるものの
結局 衰えはじめた勢力は回復しなかった
そして 一年と十数ヵ月後
進退窮まり義兄・袁紹に身を寄せる途上
「蜂蜜がなめたい」とつぶやいた後
一斗あまりもの血へどを吐いて病死
あちゃー、「蜂蜜がなめたい」の出典はここでしょうか。
おそらくこのモンキーになって震えているみっともない袁術像が、ちまたで噂の「蜂蜜皇帝」「ハニーモンキー」の出所ですね?
袁術のダメ皇帝ぶりを強調するエピソードとして「蜜」という言葉が出現したのが正史三国志の注釈に引用されている『呉書』でしたから、王欣太先生は吉川英治『三国志』をベースにして受容されてきた三国志物語の流れを歴史書に回帰させたという点で、「蒼天航路」らしいスタンスで描かれたと見てよいと思います。
(しかしダメ皇帝像を強調するスタンスは三国志演義にもありましたけどね!)
中国では猿のことは通常「
袁術にモンキーのイメージを重ねるのは日本における独特な感覚なのではないかと思います。
まとめ
以上、諸本における袁術の最期の描かれ方の違いを「蜜」に注目しながら比べてみました。
正史三国志には「蜜」の「み」の字も出てきていませんが、袁術のダメ皇帝ぶりを強調するために蜂蜜ドリンクを欲しがる話が発展してきたようです。
『呉書』や『三国志演義』では袁術はただのダメ皇帝でしたが、吉川英治『三国志』では食い違ってしまった人生を嘆く一人の人間として、横山光輝「三国志」では水すらももらえないほど人の心が離れてしまったことを嘆く人として、単なる悪役ではない描かれ方が加わりました。
「蒼天航路」では『呉書』や『三国志演義』のスタンスに回帰して、袁術を
現在、袁術が「蜂蜜皇帝」「ハニーモンキー」と呼ばれるようになったのは、「蒼天航路」の影響が大きいのではないかと考えました。
袁術の最期の描かれ方は時代や作者によって少しずつ変わっていましたね。
こういう比較からそれぞれの作品の特色を考えてみるのも面白いと思いました。