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蜀の張休はどんな人?処刑された将軍か漢嘉の名士か

ちくま学芸文庫正史三国志8巻にある人名索引では、張休ちょうきゅうという人名には三つの項が立てられています。
 ①叔嗣しゅくし ←←(※呉の張昭の子です)
 ②こう太守たいしゅ
 ③しょくの将軍
この③の蜀の張休は三国志に二箇所登場しているのですが、これはどうも別人ではないかと思うのです。
つまり三国志には張休は四人いるのではないでしょうか!?
ということで、本日は蜀の張休について調べてみました。

ちくま文庫人名索引

画像:『正史三国志8呉書Ⅲ』人名索引057より(ちくま学芸文庫/1993年7月7日/小南一郎訳)

街亭(がいてい)の戦後処理で処刑された張休

張休(蜀)の登場シーン、一つ目は街亭の戦いのあとです。

【原文】
丞相亮既誅馬謖及將軍張休・李盛、奪將軍黃襲等兵
(原文参照元:中華書局『三国志王平伝)
【訳】
丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょう馬謖ばしょくおよび将軍張休ちょうきゅうせいを処刑し、将軍黄襲こうしゅうらの兵を奪った

街亭の敗戦の責任を問われ、馬謖ばしょくおよび将軍張休・せいが処刑されたとあります。
張休は馬謖と一緒に処刑された将軍なんですね。
※この引用文の前後はこちらの記事にあります↓
李盛はどんな人?三国志にたった一箇所の登場シーンはなんと処刑者リスト!

大将軍蒋琬(しょうえん)からの質問に答えた張休

張休(蜀)の登場シーン、二つ目はこちらです↓

【原文】
王元泰名謀、漢嘉人也。《中略》後大將軍蔣琬問張休曰「漢嘉前輩有王元泰、今誰繼者?」休對曰「至於元泰、州里無繼、況鄙郡乎!」其見重如此。
(原文参照元:中華書局『三国志楊戯伝後半所収『季漢輔臣賛』。《中略》は当ブログ筆者)
【訳】
王元泰おうげんたいは名をぼうという。かんぐんの人である。
《中略》後に大将軍蒋琬しょうえんは張休にこうたずねた。
「漢嘉郡の先輩に王元泰がいるが、いま彼に継ぐ者は誰であろう」
張休は「元泰のような者は州の中にも継ぐ者はおりません。ましてやへんぴな郡にいるはずもありません」と答えた。
王元泰はこのように重く見られていたのである。

これは王元泰という人を紹介している文章で、王元泰は立派な人でしたと言いたいようです。
この文章の中で、張休は大将軍蒋琬に質問されて、王元泰のような人は郡にはいませんと答えていますね。

死んで蘇ったのか張休(蜀)!?

街亭の戦いは西暦228年、蒋琬が大将軍に就任したのは西暦235年です。
処刑された将軍の張休が大将軍蒋琬の質問に答えようと思ったら、黄泉よみのくにから蘇らないといけませんね?
三国時代の逸話で土葬された人が蘇った話はちょくちょくありますが、ふつうに考えれば、前者の張休は後者の張休とは別人であると思います。

「後大將軍蔣琬」をむりやり「後の大将軍蒋琬」と読めば、会話をしている時には大将軍じゃなかったけど後に大将軍になった蒋琬、と解釈することもできます。
しかし蒋琬は大将軍であろうとなかろうと有名人ですからわざわざ「後の大将軍」と書く必要はありません。
文脈からしても、王元泰の在世中の立派さを書いたあとで、亡くなった後でも評判が高かったことを述べているので、「後大將軍蔣琬」の「後」は、王元泰が亡くなった後、という意味でしょう。
王元泰が亡くなった後、大将軍の蒋琬と張休が会話したのです。

まとめ

三国志に登場する蜀の張休は二人いるという結論になりました。
街亭の戦後処理で処刑された張休と、大将軍蒋琬の質問に答えた張休です。

蜀の張休のことは『ようこく』にも書いてあるそうで(※1)、中国哲学書電子化計画というサイトで読める『華陽国志』を見たところ、巻三蜀志二十一の漢嘉県ところに「〔張休、王暉並俊彥稱也。〕并據今存墓銘等文獻補」とありました(※2)。

(※1)参照ページ:三国志小事典-三国志人名事典-た行 最終閲覧日:2020年5月8日
参照ページURL: ttp://www.project-imagine.org/mujins/sanguo/t.html

(※2)参照ページ:中国哲学書電子化計画 華陽国志 巻三 蜀志二十一 最終閲覧日:2020年5月8日
参照ページURL: https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=537837#蜀志二十一

この張休はおうという人とともに「俊彦しゅんげん」と称えられていますので、おそらく名士と呼ばれる類の人でしょう。

かんの人物であるようですから、蒋琬から「漢嘉郡の先輩に王元泰がいるが、いま彼に継ぐ者は誰であろう」とたずねられたあの張休ですね。
蒋琬が人物評をたずねるほどの名士ですから、街亭であっさり斬られてしまう人物と同一人物であるとは思えません。

蜀の張休は二人いたと断言していいでしょう。