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劉備が諸葛亮に言った「君みずから取るべし」は乱命なのか

三国志諸葛亮伝にこんな記述があります。

【原文】
章武三年春,先主於永安病篤,召亮於成都,屬以後事,謂亮曰:「君才十倍曹丕,必能安國,終定大事。若嗣子可輔,輔之;如其不才,君可自取。」
【訳】
章武三年(223年)春、先主は永安で病が重くなり、諸葛亮成都から呼んで後事を託し、諸葛亮にこう言った。
「君の才は曹丕の十倍に相当する。必ず国を安んじ大事を成し遂げることができるだろう。もし後継ぎが輔佐するにふさわしいならば輔佐し、その才ではないようならば君がみずから取るがいい」

現代人の目から見ると、この「君みずから取るべし」は、君になら全て任せられるという絶大な信頼感の表れのようにも見えますし、君が取れと言われたら普通断るだろ断れよという牽制のようにも見えます。
三国志』が書かれた当時において、自分の後継者以外の有力者に後事を取ってもよいと告げることはどういう意味だったのでしょうか。
同時期に書かれている似たシチュエーションの例がありますので見てみましょう。

例1:劉備荊州を託した劉表

三国志』先主伝の注釈に、劉表が自分の割拠していた荊州を自分の息子ではなく劉備に託そうとした話が引用されています。

【原文】
英雄記曰:表病,上備領荊州刺史。
魏書曰:表病篤,託國於備,顧謂曰:「我兒不才,而諸將並零落,我死之後,卿便攝荊州。」備曰:「諸子自賢,君其憂病。」或勸備宜從表言,備曰:「此人待我厚,今從其言,人必以我為薄,所不忍也。」
【訳】
『英雄記』に曰く、劉表は病になり、劉備荊州刺史を領させるよう上奏した。
『魏書』に曰く、劉表は病が重くなり、劉備に国を託して顧みて言った
「我が子は不才であり、諸将もみなぱっとしない。私が死んだ後はあなたが荊州を切り回して下さい」
劉備は言った
「お子様方は賢いです。心配しなければならないのはご自身の病気のことだけではないですか」
ある者が劉備劉表の言葉に従うのがよいと勧めたところ、劉備はこう言った
「あの人は私を厚遇してくれた。いま彼の言葉に従って荊州を取れば、人はきっと私を薄情だと思うだろう。そんなことをするのは忍びない」

『英雄記』は魏の王粲らの著作と言われていますから、『三国志』が書かれる数十年前の文章かと思います。
『魏書』を編纂した王沈らは『三国志』を編纂した陳寿と活動時期がかぶっていますので、同時代の文章だと見てよいと思います。

『英雄記』は劉表劉備荊州を譲っているだけの内容で、牽制も何もありません。
『魏書』は劉備の義理堅さを強調している内容のように見えます。

例2:張昭に江東を託した孫策

三国志』張昭伝の注釈には、孫策が張昭への遺言で、自分の後継者である孫権にもし後継の任が務まらない場合には張昭がそれをやるように言っている文章があります。

【原文】
吳歷曰:策謂昭曰:「若仲謀不任事者,君便自取之。正復不克捷,緩步西歸,亦無所慮。」
【訳】
『呉歴』に曰く、孫策は張昭にこう言った
「もし仲謀がその任にふさわしくなければあなたがそれを取って下さい。また勝てなければゆっくりと西に帰してもかまいません」

『呉歴』は呉の天紀年間(277-280)に中書令となった胡沖が編纂したものだそうですので、これも『三国志』と同時代の文章だと見てよいでしょう。
この孫策の遺言は、だめだったら好きにしてもいいから孫権を見捨てないでやってくれと張昭に言っているように見えます。
張昭は孫策が亡くなった時点で孫氏を見限ってよそへ鞍替えしたって生きていけますが、孫氏としては張昭に見限られれば勢力が瓦解しかねませんから、切実な遺言だったろうと思います。

例3:劉備に徐州を託した陶謙

三国志』先主伝には陶謙が自分の割拠していた徐州を自分の息子ではなく劉備に託した話があります。

【原文】
謙病篤,謂別駕麋竺曰:「非劉備不能安此州也。」謙死,竺率州人迎先主…
【訳】
陶謙は病が重くなり、別駕の麋竺にこう言った
劉備でなければこの州を安定させることはできない」
陶謙が死ぬと麋竺は州の人を率いて先主を迎え…

これは『三国志』の本文ですから劉備諸葛亮への遺言が記されたのと同時代の文章ですね。
この文章では陶謙が徐州の状況について現実的に考えた結果劉備に託したように見えます。徐州の人たちも実際に劉備を迎え入れています。
現実的な処理だと見ていいでしょう。

なんのてらいもない現実的な遺言

劉備から諸葛亮への遺言が『三国志』に記されたのと同時代に書かれた3つの例を見てきました。
これらの例では、いずれも現実的な処理について述べているように見えます。
君が取れと言っておけば取りはしないだろう、私の後継ぎを終生もりたててもらおう、という企みの込もった情景には見えません。

これらの例から類推すれば、劉備から諸葛亮への遺言もなんのてらいもない現実的な遺言であったと見てよいのではないでしょうか。
息子が自力で後を継いでいけるようなら嬉しいけど無理すぎてみんながバラバラになっちゃうなら諸葛亮が代わりにまとめてくれたほうがいい、という本音の言葉なのではないかと思います。

そもそも「君みずから取るべし」は「乱命」なのか

といことで私は「君みずから取るべし」を現実的な本音の言葉だと解釈しています。
これを本音ではなく牽制だと解釈する見方について少し言及してみましょう。

劉備諸葛亮に言った「君みずから取るべし」が諸葛亮への牽制だと解釈される根拠としては、臣下に権力を奪えと言うのは臣下として受け入れることができるはずのない乱命であるから臣下のその方向への動きを封じるものである、という論があげられていると思います。
しかし私は「臣下として受け入れることができるはずのない乱命」という概念に疑問を持っています。

国家権力が確立した宋の時代に朱子が忠という概念や臣のありかたについて交通整理した後の時代を生きている我々から見れば臣下が国君の権力を奪うなどということは臣下としてできないでしょ、と思いますが、三国志の時代は必ずしもそうではなかったのではないでしょうか?

地方の有力者は私兵や財産を持っており、一族の生存戦略に沿ってどの群雄に投資するかを決める。
名士は自分の名声でとこへでも行くことができ、君と仰いだ者から離れる際には彼に徳がなかったのだと言えば名声は傷つかない。
互いの利害が一致しないなら君臣関係は容易に解消できたと思います。

それが異常なことでもなければ悪いことでもなかったのではないでしょうか。
自分につくメリットがあるとみんなを納得させることのできる者が君主たりえたのだろうと思います。

そういう状況の中で、「君みずから取るべし」は現実的な選択肢について話しただけだろうと思います。
私には乱命だとは思えません。

まとめ

劉備の「君みずから取るべし」を臣下が聞き入れることのできるはずのない乱命だとし、劉備諸葛亮を牽制する言葉だと解釈し、劉備諸葛亮の不仲説の根拠とするような見方がありますが、私はその見方は採らないこととします。

同時代の視点から見れば、現実的な打ち合わせをしただけなんじゃないかな、と思いました。

諸葛亮劉備は水と魚です。
諸葛亮が道筋をつけなければ劉備は蜀に入れなかったでしょうし、劉備がいなければ諸葛亮の絵図が実現することもなかったかもしれません。
劉備としては、諸葛亮と一緒に築いた政権だから諸葛亮のやりやすいようにやってくれればそれでいい、いずれにしても彼なら悪いようにはしないだろう、という信頼感があって「君みずから取るべし」と言ったのではないかと私は思っています。

※この記事で『三国志』と呼んでいるのは正史の『三国志』のことです。
※原文引用元:漢籍電子文献資料庫 最終閲覧日:2022年12月4日