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北方謙三『三国志』についての個人的な見方※雑文です

私は以前「これまでに読んだ『三国志』という題名の小説の中では北方謙三三国志』が一番好きだ」という趣旨の発言をしたことがあります。
このことによって私のことを北方謙三三国志』を高く評価している人だと思っていらっしゃる方もおられるようですので、ここに個人的な北方謙三三国志』に対する見方をまとめることといたします。

まず「これまでに読んだ『三国志』という題名の小説の中では」一番好きだという評について。
私が北方謙三三国志』以前に読んでいた『三国志』という題名の小説は吉川英治三国志』と宮城谷昌光三国志』です。
私の個人的な嗜好として、人が「忠」や「義」を軸として動く話は苦手なため、吉川英治三国志』と宮城谷昌光三国志』はその点において自分にとってはしっくりきませんでした。
その点、北方謙三三国志』は「忠」や「義」ではなく一人一人のこだわりで人物が動いているので、他の2つの作品よりも私の好みでした。

上に述べたのは私の好みの話であって、北方謙三三国志』を三国志小説としてどう評価するかという話ではありません。
三国志小説としては個性的な作品だなという印象です。
三国志を題材として北方謙三先生の描きたい男の生き様が表現されているエンタメ作品だと思います。
北方謙三らしく振り切ったエンタメになっていていいと思います。
ただ、題名が『三国志』というのには違和感を覚えます。一般に三国志と言われて思い浮かべる話とはずいぶん違う話になっているからです。

私の北方謙三三国志』に対する評価をまとめると「内容が三国志であるか否かにはかかわりなく北方謙三らしく振り切ったエンタメ作品」ということになります。
そこで次は北方謙三作品をエンタメとしてどう評価するかという話にうつりましょう。

北方謙三作品については、よくできたエンタメだなという印象を抱いています。
『檻』という作品を例にとりますと、まず主人公の滝野はどこにでもいそうなスーパーのオーナーです。読者は彼に自分を重ねて読むことができます。
ところが滝野には意外な過去がありまして、めっちゃ強いんですよ!
滝野に自分を重ねながら読めば、なんでもない一般人の読者も「なんでもない一般人に擬態しているけれど自分は実はめっちゃ強い」という感覚を味わうことができます。
滝野は読者を様々な冒険と暴力に誘ってくれます。
いつしか滝野の身体感覚が読者とシンクロし、最後には読者は滝野と一体化して走っていると思います。
さて、そこまできて、読者が滝野と一緒に非日常に行ったきりになってしまうような作品なら、私はそれをよくできたエンタメとは思いません。
『檻』では、最後の最後にちゃんと読者を日常に戻してくれます。しかも、そのとき、これまでなんとも思っていなかった日常が自分にとって一番大切な居場所だったとさえ感じさせてくれます。
読者に別世界を体験させながら最後にはちゃんと元の世界に戻してくれる、そして元の世界が輝いて見える。
なんと行き届いたエンタメだろうと思います。

北方謙三作品のことは起きながら見られる夢だと思っています。
夢は所詮、夢。
面白いなぁと思う部分だけふんわりと楽しめればいいのかな、と思います。