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関羽の顔が赤くなり張飛とバトルからの桃園結義!『歸田瑣記』巻七で読んだ

かんの顔はなぜ赤いのか。
故郷の解県かいけんで罪を犯して逃げる途中に、河で顔を洗ったら赤くなったという話を聞いたことがある方も多いと思います。
関羽ちょうの出会いについては、張飛が井戸に豚肉を保管して上に重い石を載せ「この石をどかすことのできた者には肉を与える」と書いておくと関羽が石をどかして肉をとったため、張飛関羽に力比べを挑んだという話を聞いたことがある方も多いと思います。

こういう話は「民間伝承では」という形で人づてに聞くことが多く、一体どこのどんな人たちの伝承なんだろう、出典はあるのかな、と首をかしげたことのある方も多いと思います。
でん瑣記さき』という書物に記述がありましたので、関係のある部分を訳してみました。

『帰田瑣記』はどんな書物?

でん瑣記さき』は清の梁章鉅りょうしょうきょ(1775~1849)の著作です。
梁章鉅はきょしんに登第したスーパーエリートで、数々の官職を歴任しアヘン戦争の時にも頑張った人です。
『帰田瑣記』の序文には、仕事を頑張っていても自適の心はあるんだよということと、ちょっといい話を集めてみた、というようなことが書いてあるようです(私には文章が難しくて何言ってんだかよく分からないです)。
内容は、梁章鉅がピックアップした短い話の紹介に梁章鉅のコメントが付いている部分と、詩や韻文が載っている部分から成っています。

関羽の赤い顔伝説と関羽張飛のバトルは『帰田瑣記』巻七にありました

冒頭でお話しした関羽の赤い顔伝説と関羽張飛のバトルの話は『帰田瑣記』巻七の「三国演義」という項にありました。
『帰田瑣記』が出所ではなく、『関西故事』に載っている話を紹介する文章です。
さっそく読んでみましょう。

娘さんを助けるために殺人を犯し、逃走中に赤い顔になった関羽

關西故事載蒲州解梁關公本不姓關,少時力最猛,不可檢束,父母怒而閉之後園空室。一夕,啟窗越出,聞墻東有女子啼哭甚悲,有老人相向而哭,怪而排墻詢之。老者訴云:「我女已受聘,而本縣舅爺聞女有色,欲娶為妾。我訴之尹,反受叱吒,以此相泣。」公聞大怒,仗劍徑往縣署,殺尹並其舅而逃。至潼關,聞關門圖形,捕之甚急。伏於水旁,掬水洗面,自照其形,顏已變蒼赤,不復認識。挺身至關,關主詰問,隨口指關為姓,後遂不易。
【訳】
『関西故事』にこんな話が載っている。
蒲州ほしゅう解梁かいりょうの関公はもとは関という姓ではなかった。
少年の頃は力が強く猛々しく、抑制することができなかったので、父母は怒って後園の空室に公を閉じ込めた。
ある晩、公が窓から抜け出すと、塀の東で女性がたいへん悲しそうに泣いている声が聞こえた。老人と向かい合って泣いている。公はげんに思い、塀を押し倒してどうしたのかとたずねた。老人はこう訴えた。
「私の娘はすでに結婚が決まっているのですが、県の長官の舅爺(※祖母や母親や妻の兄弟のこと)が私の娘の評判を聞き、めかけにしたいと言ってきました。私は長官に訴えましたが、かえってお叱りを受け、こうして泣いております」
公はこれを聞いて大いに怒り、剣をつかんで県の役所へ行き、長官とその舅爺を殺して逃走した。
潼関どうかんに至ると、関所の門には人相書きがあり厳しく手配されている。水辺に伏して水をすくって顔を洗い、顔を映してみると、顔が真っ赤に変わっており、同一人物には見えなかった。
起き上がって関所に至り、関所の長の尋問を受け、口からでまかせに姓は関と名乗り、そのままずっと改めなかった。

関羽というと落ち着いた人物のイメージがありますが、この話の関羽は若い頃には暴れん坊で親に軟禁されていたようです。
あっさり窓から抜け出し、塀のむこうから泣き声が聞こえたら塀を破壊して入って行って「どうしたんだ」とたずね、「なにっ、そいつは許せねえ」とばかりに剣をひっさげ悪代官たちを殺しに行くとは、三国志演義関羽のイメージとは少し違いますね。
困っている娘さんを助けてお尋ね者になるパターンはちょっと西部劇っぽさもあり、面白いですね。
で、逃走して、関所に人相書きがあるのに気付いて「げぇっ」と思い、顔を洗うふりしてとっさに顔を隠したのでしょうか。すると顔が真っ赤に変わっていて大丈夫だった、と。
いま見た話では顔が赤くなる理由が書かれていませんが、これを神のご加護によって、と解釈する話もあるようですね?(又聞きです)
もとの姓は関ではなく、関所で尋問されたから何気なく「関」と名乗ったのをそのまま姓にした、という話になっていますね。

張飛の豚肉を取り、張飛と力比べ。からの桃園結義

張飛とのバトルは先程の「口からでまかせに姓は関と名乗り、そのままずっと改めなかった」の文章に続いて、下記のように書かれています。

東行至涿州,張翼德在州賣肉,其賣止於午,午後即將所存肉下懸井中,舉五百斤大石掩其上,曰:「能舉此石者,與之肉。」公適至,舉石輕如彈丸,攜肉而行。張追及,與之角力相敵,莫能解。而劉玄德賣草履亦至,從而禦止,三人共談,意氣相投,遂結桃園之盟云云。
【訳】
公は東に行き、涿州たくしゅうに至った。
張翼ちょうよくとくは州で肉を売っており、昼に売るのをやめて午後には肉を井戸の中にぶら下げておき、五百斤の大石を持ち上げて井戸の上に蓋をし、こう言うのであった。「この石を持ち上げることができる者には肉を与える」
公はたまたま通りかかり、パチンコの弾でも持ち上げるように軽々と石を持ち上げ、肉をぶらさげて行った。張飛は追いかけ、公と力比べをしたところ、力は互角、勝負がつかない。
劉玄徳りゅうげんとくは草履を売っており、ここを通りかかった。そして二人に割って入って止め、三人は語り合い、意気投合して、ついに桃園の誓いを結んだ。云々。

うろ覚えなのですが、人形劇三国志の三兄弟の出会いのシーンには、この逸話が採用されていませんでしたでしょうか? 何かの作品で見た覚えがあります。
力自慢の張飛、勝負は受けて立つ関羽、止めに入る人がいちばん力がいりそうだからきっと強いであろう劉備。短い話の中に三人のキャラクターが表現されていて面白い話だと思います。

『帰田瑣記』巻七「三国演義」の項を最後まで読んでみる

『帰田瑣記』巻七「三国演義」の項は関羽の顔が赤くなった話と関羽張飛の力比べからの桃園結義の話を紹介するだけでなく、他のことも書いてあります。
最後まで読んでみることにします。

語多荒誕不經,殆演義所由出歟?按今時以五月十三日為關帝生日,見明會典,今會典亦循舊致祭。但子平家推算八字為四戊午,則非也。公死於建安二十四年己亥,元胡琦考之,當在六十上下,果戊午,僅四十有二耳。戊午乃光和元年,考通鑑目錄,是年四月庚午朔,五月己卯朔,無戊午日。且古人始生,只記年月日,不及時,故唐李虛中推命猶不以時,見韓昌黎集。按今演義所載周倉事,隱據魯肅傳,貂蟬事,隱據呂布傳,雖其名不見正史,而其事未必全虛。餘近作三國志旁證,皆附著之。
【訳】
語るところには根拠がなくでたらめなことが多く、出所はほとんど演義なのではなかろうか? 現在5月13日を関帝の誕生日としているのは、明の会典にみえる。今の会典でも伝統を踏襲して祭を行うことになっている。ただしへい推命すいめいで八字を四戊午としているのは違う。
関公は建安けんあん二十四年己亥に亡くなっており、げん胡琦こきの考証によれば六十才前後であるはずである。戊午だとすれば、四十二才にしかならない。
戊午はこう元年であり、『資治しじがん目録もくろく』で考証すると、この年の四月は庚午朔、五月は己卯朔で、戊午の日はない。
かつ昔の人は生まれた時に年月日を記すだけで時間までは記さない。ゆえにとう李虚中りきょちゅう推命すいめいに時間を用いない。このことは『かんしょうれいしゅう』に見える。
いま演義に載っている周倉しゅうそうのことは魯粛ろしゅく伝にルーツがあり、貂蝉ちょうせんのことはりょ伝にルーツがある。その名は正史に見えないが、必ずしも完全な虚構というわけではない。
私が最近行った三国志の旁証はみなこれに付した。

生年月日に関する考証や、周倉しゅうそう貂蝉ちょうせんにはモデルがいるんだよ、という話が書かれていますね。
梁章鉅りょうしょうきょ三国志のお話について考えてみたことが書かれているようです。

まとめ

関羽の顔が赤くなってしまった話や、大石を持ち上げて張飛肉をとったことで二人のバトルが始まった話は、民間伝承としてよく聞くものの、それが書かれている漢文を目にする機会はあまりないですよね。

いま読んだ『でん瑣記さき』巻七「三国演義」は元ネタというわけではなく、すでにある話を書いてくれているものですが、こういう書物にこの話が書いてあるのか、というのを見ることができよかったです。
仕事に忙しいスーパーエリートがこういうお話にコメントを添えて書き残してくれていると思うと、三国志のお話が広く親しまれていた様子が分かり面白いですね。

原文引用元:中国哲学書電子化計画 帰田瑣記 巻七
最終閲覧日:2020年9月16日
参照ページURL: https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=546128

参考webページ:百度百科 梁章鉅の項
最終閲覧日:2020年9月16日
参照ページURL: https://baike.baidu.com/item/%E6%A2%81%E7%AB%A0%E9%92%9C