※素人が趣味で行っているざっくりとした現代語訳(日本語訳)です。当ブログについてをご確認のうえ自己責任でご利用下さい。訳文中、( )内はブログ管理人のコメントです。原文引用元は维基文库です。维基文库の校勘記を引用文から省いて维基文库が原文とみなした部分を訳しています。〔 〕内は他の史料から補われた部分が含まれていることも多いのでご注意下さい。维基文库の校勘についてはこちらの引用元をご確認下さい→引用元URL:https://zh.wikisource.org/wiki/華陽國志 最終閲覧日:2023年1月27日
南中志
一、
【原文】
寧州,晉泰始六年初置,蜀之南中諸郡,庲降都督治也。南中在昔,蓋夷越之地,滇、濮、句町、夜郎、葉榆、桐師、嶲唐,侯王國以十數,〔或椎髻耕田,有邑聚,或〕編髮、「左衽」隨畜遷徙,莫能相雄長。周之季世,楚「威」〔頃襄〕王遣將軍莊蹻泝沅水出且蘭以伐夜郎,植牂柯,繫船於是。且蘭既克,夜郎又降,而秦奪楚黔中地,無路得反,遂留王滇池。蹻,楚莊王苗裔也。「分侯支黨,傳數百年秦并蜀,通五尺道,置吏主之。漢興,遂不賓。」
【訳】
寧州は晋の泰始六年初に置かれた。蜀の南中諸郡は庲降都督が治めている。南中は昔、夷越の地だったのであろう。滇、濮、句町、夜郎、葉榆、桐師、嶲唐、侯王国は十数。〔あるいは髪を椎髻に結って耕田し集落をなし、あるいは〕編髮、〈左衽〉で家畜に従って移動し、いずれも他を圧倒する勢力を持つことはなかった。周の末世に楚の〈威〉〔頃襄〕王が将軍の荘蹻を派遣して沅水を遡って且蘭に出させ、夜郎を伐ち牂柯に依らせ、ここに船を繋がせた。且蘭ですでに勝ち、夜郎もまた降ったが、秦が楚の黔中の地を奪ったため帰路を得られず、ついに留まって滇池で王となった。荘蹻は楚の荘王の末裔である。「分侯や支党(侯の分家や集団の支部)が伝えること数百年で秦が蜀を併合し、五尺の道を通し、官吏を置き、ここを掌握した。漢が興ると服さなかった。」
【原文】
有竹王者,興於遯水。〔先是〕有一女子浣於水濱。有三節大竹流入女子足閒,推之不肯去,聞有兒聲。取持歸,破之,得一男兒。〔養之。〕長「養」有才武,遂雄夷「狄」〔濮〕,氏以竹為姓。捐所破竹於野,成竹林,今竹王祠竹林是也。王與從人嘗止大石上,命作羹,從者「曰」〔白〕無水,王以劍擊石,水出,今〔竹〕王水是也,破石存焉。後漸驕恣,〔分侯支黨,傳數百年。秦并蜀,通五尺道,置吏主之。漢興,遂不賓。〕武帝使張騫至大夏國,見邛竹、蜀布,問所從來,曰:「吾賈人從身毒國得之。」身毒國,蜀之西國,今永昌〔徼外〕是也,騫以白帝。東越攻南越,大行王恢救之。恢使番陽令唐蒙曉喻南越,南越人食有「蒟」〔枸〕醬,蒙問所從,曰「牂柯來。」蒙亦以白帝,因上書曰:「南越地東西萬里,名為外臣,實一州主,今以長沙、豫章往,水道多絕,難行。竊聞夜郎精兵可得十萬,若「從番禺」浮船牂柯,出其不意,此制越之一奇也。可通夜郎道,為置吏主之。」帝乃拜蒙中郎將,發巴、蜀兵千人,奉幣帛,見夜郎侯,喻以威德,為置吏。
【訳】
竹王なる者が遯水に興った。〔(竹王の勃興の話の始まりは)まず〕一人の女子が水辺で水浴びをしていると、三節の大竹が流れてきて女子の足の間に入り、押しても離れず、子供の声が聞こえた。取って持ち帰り竹を割くと、一人の男児を得た。〔これを養い、〕長じては才武があり、ついに夷〈狄〉〔濮〕の有力者となり、氏は竹を姓とした。割いた竹を捨てた野には竹林ができた。今の竹王祠の竹林がこれである。王は従者と大石の上に止まったことがあり(山歩き中に休憩でもしたのか、それとも居住したのか?)、羹を作るように命じると、従者は水がないと言った。王が剣で石を撃つと水が出た。今の〔竹〕王の水がこれであり、破石がそこにある。のちに次第に驕恣となり、〔分侯や支党が伝えること数百年で秦が蜀を併合し、五尺の道を通し、官吏を置き、ここを掌握した。漢が興ると服さなかった。〕武帝は張騫を大夏国へ行かせた。邛竹、蜀布を見てどこから来た物かを問うと、こういう答えだった「我々の商人が身毒国から得たものだ」と。身毒国は蜀の西の国で、今の永昌〔の境外〕がこれである。張騫はこのことを帝に伝えた。東越が南越を攻め、大行(←官名)の王恢がこれを救った。王恢は番陽の令(長官)の唐蒙に南越を説得させた。南越人の食に〈蒟〉〔枸〕醬があり、唐蒙がどこから来る食品かと問うと、牂柯から来るということであった。唐蒙もまたこのことを帝に伝え、こう上書した「南越の地は東西万里、名目上は外臣となっていますが実際は一州の主です(独立勢力)。長沙、豫章から行こうにも水道は多くが絶えており、行くことは難しいです。ひそかに聞くところによれば、夜郎の精兵は十万が得られるといいます。もし〈番禺から〉船を牂柯に浮かべ、その不意をつけば、それは越を制する奇策です。夜郎への道を通して官吏を置き統治するべきです」帝はそこで唐蒙を中郎将とし、巴、蜀の兵千人を発し、幣帛を奉じて夜郎侯に会見させ、威德をもって諭して官吏を置いた。
【原文】
旁小邑皆貪漢繒帛,以為道遠,漢終不能有也,故皆且聽命。司馬相如亦言:西夷邛笮,蜀之後園,可置為郡。帝「既感邛竹,又甘蒟醬」,乃拜為中郎將,往喻意,皆聽命。「後西南夷數反,發運役,費甚多,相如知其不易也,乃假巴蜀之論以諷帝,且以宣指使「使」於百姓」。〔蒙〕卒開僰門通南中,相如持節開越嶲,按道侯韓說開益州。武帝轉拜唐蒙為都尉,開牂柯,以重幣喻告諸種侯王,侯王服從。因斬竹王,置牂柯郡,以吳霸為太守。及置越嶲、朱提、益州「四」郡。後夷濮阻城,咸怨訴竹王非血氣所生,求立後嗣,霸表封其三子列侯。死,配食父祠。今竹王三郎神是也。
【訳】
まわりの小邑はみな漢の絹布を貪り、道が遠いため漢が統治を保ち続けることはできないだろうとたかをくくってみな漢の命を聴き入れた。司馬相如もまた言った「西夷の邛笮は蜀の後国で、郡を置くべきだ」と。帝は〈すでに邛竹に感心しており、また蒟醬を美味しいと思っていたため〉、司馬相如を中郎将とし、行って意を諭させ、みな命を聴き入れた。〈後に西南夷がしばしば反し、運役を発する出費がはなはだ多く、司馬相如はこの状況は大変だと気づいた。そこで巴蜀の世論に仮託して帝を婉曲に諌め、かつ皇帝の意図を
二、
【原文】
昭帝始元元年,益州廉頭、姑繒,〔牂柯、談指同並〕等二十四縣民反。水衡都尉呂破奴募吏民及發犍為、蜀郡奔命擊破之。後三歲,姑繒復反。「都尉呂辟胡」〔破奴〕擊之,敗績。明年,遣大鴻臚田廣明等,大破之。斬首、捕虜五萬人,獲畜產十餘萬頭。「富埒中國」封「其」〔鉤町〕渠帥亡波為鉤町王,以〔其〕助擊反者故也。廣明賜爵邑。
【訳】
昭帝の始元元年、益州の廉頭、姑繒、〔牂柯の談指、同並〕ら二十四の県民が反した。水衡都尉の呂破奴が吏民を募り、また犍為、蜀郡を徴発し、奔命して反乱を擊破した。のち三年で姑繒がまた反した。〈都尉の呂辟胡〉〔呂破奴〕がこれを攻撃して敗績した。翌年、大鴻臚の田広明らを派遣して大いに破った。斬首したもの、捕虜としたもの五万人、畜産十余万頭を得た。〈富は中国と同等であった。〉〈その〉〔鉤町の〕頭目の亡波を鉤町王に封じた。反した者を撃つのを助けさせるためである。田広明が爵邑を賜った。
【原文】
成帝時,夜郎王興與鉤町王禹,漏臥侯愈,更相攻擊。帝使太中大夫〔蜀郡〕張匡持節和解之。鉤町、夜郎王不服,乃刻木作漢使射之。大將軍王鳳薦金城司馬蜀郡陳立為牂柯太守。何霸為中郎將出益州。立既到郡,單至夜郎〔且同亭〕召興。興與邑君〔數十人,率從〕數千人來見立,立責數,斬興,邑君皆悅服。興妻父翁指,與興子〔邪務〕恥,復反。立討〔平〕之。威震南裔。〔王莽定諸王之號,四夷稱王者皆更為侯。〕〔王邯怨怒不附,莽諷▢柯大尹周歆〕〔詐殺邯。邯弟承,起兵殺歆,州郡擊之,不能服。〕〔蠻夷愁擾,盡反,復殺益州大尹程隆。莽遣平蠻將軍馮茂,發巴、蜀、犍為吏士,賦斂取足於民以擊之。〕〔茂擊句町,士卒疾疫,死者什六七。賦斂民財,什取五,州境虛耗而不克。徵還,下獄死。更遣寧始將軍廉丹,與庸部牧史熊,大發天水、隴西騎士,廣漢、巴、蜀、犍為吏民十萬人,轉輸者合二十萬人擊之。始至,頗斬首數千,其後軍糧前後不相及,士卒飢疫。莽徵丹、熊,丹、熊願調度,必克乃還。復大賦斂。粵嶲蠻夷任貴亦殺太守枚根反。〕〔丹等久不能克,益州郡夷棟蠶、若豆等起兵殺太守,姑復夷大牟等亦皆叛,殺略吏人。莽召丹還,更遣大司馬護軍郭興、庸部牧李曄,擊若豆等。〕〔又遣國師和仲、曹放助郭興擊鉤町,皆不能克〕〔而還。〕
【訳】
成帝の時、夜郎王の興が鉤町王の禹と漏臥侯の愈と互いに攻擊し合った。帝は太中大夫の〔蜀郡の〕張匡に節を持たせて和解させようとした。鉤町王と夜郎王は服さず、木を彫って漢の使者の木像を作り射た。大将軍の王鳳が金城の司馬の蜀郡の陳立を推薦して牂柯太守とし、何霸を中郎将として益州に出させた。陳立が郡に至ると、単独で夜郎〔且同亭〕へ行き夜郎王興を召喚した。興は邑君〔数十人〕と数千人〔を従えて〕来て陳立と会見した。陳立は興を責めたてて興を斬った。邑君はみな喜んで服した。興の妻の父の翁指が興の子〔邪務〕恥とともに再び反した。陳立はこれを討ち〔平らげ〕、陳立の威は南裔(南方の辺境地域)を震わせた。〔王莽は諸王の号を定め、四夷の王を称する者をみな改称して侯とした。〕〔王の邯は怨み怒って帰依せず、王莽は牂柯の大尹の周歆にほのめかして〕〔邯を欺いて殺させた。邯の弟の承が起兵して周歆を殺し、州郡が承を攻撃したが服させることはできなかった。〕〔蛮夷は擾乱しことごとく反し、また益州の大尹の程隆を殺した。王莽は平蛮将軍馮茂を派遣し、巴、蜀、犍為の吏士を徴発して民から軍費を徴税し乱を撃つことに充てた。〕〔馮茂が句町を撃ったさい、士卒は疫病にかかり、死者は什の六割七割であった。徴収は民の財の十中五を取り、州境はすっからかんとなったが勝てなかった。馮茂は罪を問われて呼び戻され、獄に下されて死んだ。王莽はあらためて寧始将軍廉丹と庸部牧史熊を派遣し、大いに天水・隴西の騎士、廣漢・巴・蜀・犍為の吏民十万人、荷物運びの者あわせて二十万人を徴発して乱を擊った。始めはすこぶる首を斬ること数千であったが、後に軍糧の補給線がつながらず、士卒は飢え病んだ。王莽は廉丹、史熊を問責したが、廉丹、史熊は荷物運びの人員を増やしてくれるよう願い、必ず勝ってから帰ると答え、再び大いに(民の財を)徴収した。粵嶲の蛮夷の任貴もまた太守の枚根を殺して反した。〕〔廉丹らは久しく勝つことができず、益州郡の夷の棟蚕、若豆らが起兵して太守を殺し、また夷の大牟らもみな謀叛し、吏人を殺して略奪した。王莽は廉丹を召還し、あらためて大司馬護軍の郭興、庸部牧李曄を派遣し、若豆らを撃たせた。〕〔また国師の和仲、曹放を派遣して郭興が鉤町を撃つのを助けさせたが、みな勝つことができず〕〔また召還された。〕
【原文】
「平帝末」梓潼文齊為益州太守,公孫述時,拒郡不服。光武「稱」帝以南中有義,〔封齊成義侯。〕益州西部,金、銀、寶貨之地。居其官者,皆富及十世。孝明帝初,廣漢鄭純獨尚清廉,毫毛不犯。夷漢歌詠,表薦無數。上自三司,下及卿士,莫不嘆賞。明帝嘉之,因以為永昌郡,拜純太守。章帝時,蜀郡王阜《後漢書‧滇傳》訛作追。《東觀記》亦作阜。為益州太守,治化尤異:神馬四匹出滇池河中,甘露降,白烏見,始興文學,漸遷其俗。
【訳】
〈平帝の末年〉梓潼の文斉が益州太守となった。公孫述の時、郡にたてこもって服従しなかった。光武帝が〈帝を称し〉南中に義ありとし、〔文斉を成義侯に封じた。〕益州西部は金、銀、宝貨の地である。その官に居す者はみな富十世に及ぶ。明帝の初年、広漢の鄭純だけが清廉であり、少しも犯さなかった(不正に財を蓄えなかったという文脈か)。夷も漢もこれを歌詠して彼を表薦するもの無数であった。上は三公より下は卿士に及ぶまで嘆賞しない者はなかった。明帝はこれを嘉し、ここを永昌郡とし、鄭純を太守とした。章帝の時、蜀郡の王阜が益州太守となり、政治と教化が殊に優れており、神馬四匹が滇池の河中に出て甘露が降り白い烏が現れ文学が興り、次第にその習俗を変えていった。
【原文】
安帝「永初中,漢中、陰平、廣漢羌反,征戰連年」元初四年,益州、永昌、越嶲諸夷封離等反,眾十餘萬,多所殘破。益州刺史張喬遣從事蜀郡楊竦將兵討之。竦先以詔書告諭,告諭不從,方略滌討。凡殺虜三萬餘人,獲生口千五百人,財物四「千」〔十〕餘萬,降、赦夷三十六種,舉劾姦、貪長吏九十人,黃綬六十人。諸郡皆平。竦以傷死,故功不錄。自是後,少寧五十餘年。迄靈帝熹平中,蠻夷復反,擁沒益州太守雍陟。遣御史中丞朱龜,將并、涼勁兵討之,不克。朝議不能征,欲依朱崖故事棄之。太尉掾巴郡李顒獻陳方策,以為可討。帝乃拜顒益州太守,與刺史龐芝伐之,徵龜還。顒將巴郡板楯軍討之,皆破,陟得生出。〔顒卒〕後,復「更」叛,梓潼景毅為益州太守,〔討定之。〕承喪亂後,民夷困餓,米一▢千錢,〔民〕皆離散。毅至,安集後,米一▢八錢。
【訳】
安帝の〈永初年間、漢中・陰平・広漢の羌が反し、連年征戦した。〉元初四年、益州・永昌・越嶲の諸夷の封離らが反し、その衆は十万余りで、多くの場所が破壊された。益州刺史の張喬が従事の蜀郡の楊竦を派遣して兵を率いて討伐させた。楊竦はまず詔書を示して夷らを告諭し、告諭に従わなければ軍略で掃討した。殺した夷は三万人あまり、獲えた捕虜は千五百人、財物は四〈千〉〔十〕万余り、赦免した夷は三十六種。姦悪であったり貪欲であったりした長吏九十人、黄綬(二百~六百石の官吏。長吏より下の役人)六十人を弾劾した。諸郡はみな平定された。楊竦は傷が原因で死去したため功が記録されなかった。これより後、五十年あまりは南中は小康状態であった。霊帝の熹平年間までに蛮夷がまた反し、益州太守の雍陟を包囲した。御史中丞の朱亀を派遣して,并州、涼州の精鋭を率いて討伐させたが勝たなかった。朝議では征伐できないだろうという結論になり、朱崖の故事(華陽国志訳注稿(4)の注では『漢書』巻九元帝紀の初平三年の条にある珠厓県の反乱の話が引かれている)によって討伐を放棄した。太尉掾の巴郡の李顒が方策を献じ、討つべしと主張した。帝はそこで李顒を益州太守とし、刺史の龐芝とともに討伐に行かせ、朱亀を問責して召喚した。李顒は巴郡の板楯軍を率いて反乱を討ち、みな破り、(包囲されていた)雍陟は生きて出ることができた。〔李顒が亡くなった〕後、また〈更に〉叛し、梓潼の景毅が益州太守となり〔これを討ち定らげた〕。動乱の影響で民夷は飢餓に苦しみ、米一斗が千銭となり、〔民は〕みな離散していた。景毅が着任して安定させ集めた後には米一斗八銭となった。
三、
【原文】
建安十九年,劉先主定蜀,遣安遠將軍、南郡鄧方,以朱提太守、庲降都督治南昌縣。輕財果毅,夷漢敬其威信。方「亡」〔卒〕,先主問代於治中從事建寧李恢,對曰:「「西」〔先〕零之役,趙充國有言:「莫若老臣。」」先主遂用恢為都督,治平夷縣。先主薨後,越嶲叟帥高定元殺郡將「軍」焦璜,舉郡稱王以叛。益州大姓雍闓亦殺太守正昂,更以蜀郡張裔為太守。闓假鬼教曰:「張「裔」府君,如瓠壺,外雖澤,「而」內實粗,殺「之」不可,縛與吳。」於是執送裔於吳。吳主孫權遙用闓為永昌太守;遣故劉璋子闡為益州刺史,處交、益州際。牂柯郡丞朱提朱褒領太守,恣睢,丞相諸葛亮以初遭大喪,未便加兵,遣越嶲太守巴西龔祿住安上縣,遙領郡;從事蜀郡常頎行部南入;以都護李嚴書曉喻闓。闓答曰:「愚聞天無二日,土無二王。今天下派分,正朔有三,遠人惶惑,不知所歸。」其傲慢如此。頎至牂柯,收郡主簿考訊姦。褒因「煞」〔殺〕頎為亂。益州夷復不從闓,闓使建寧孟獲說夷叟曰:「官欲得烏狗三百頭、膺前盡黑,●腦三▢,「斷」〔斲〕木構三丈者三千枚,汝能得不?」夷以為然,皆從闓。「斷」〔斲〕木堅剛,性委曲,高不至二丈,故獲以欺夷。
【訳】
建安十九年、劉先主が蜀を平定し、安遠將軍の南郡の鄧方を派遣して朱提太守・庲降都督として南昌県を治めさせた。鄧方は財を軽んじ果断であり、夷も漢もその威信を敬った。鄧方が亡くなると、先主は鄧方に代わるものは誰がよいかを治中従事の建寧の李恢に訊ねた。李恢はこう答えた「〈西〉〔先〕零の役の際、趙充国は『
【原文】
建興三年春,亮南征。「自安上」由水路〔自安上〕入越嶲。別遣馬忠伐牂柯,李恢向益州。以犍為太守廣漢王士為益州太守。高定元自旄牛、定笮、卑水多為壘守。亮欲俟定元軍眾集合,并討之,軍卑水。定元部曲殺雍闓及士「庶」等,孟獲代闓為主。亮既斬定元,「而」馬忠破牂柯,〔而〕李恢敗於南中。夏五月,亮渡瀘,進征益州。生虜孟獲,置軍中,問曰:「我軍如何?」獲對曰:「恨不相知,公易勝耳。」亮以方務在北,而南中好叛亂,宜窮其詐。乃赦獲,使還合軍,更戰。凡七虜、七赦。獲等心服,夷、漢亦思反善。亮復問獲,獲對曰:「明公,天威也!邊民長不為惡矣。」秋,遂平四郡。改益州為建寧,以李恢為太守,加安漢將軍,領交州刺史,移治味縣。分建寧、越嶲置雲南郡,以呂凱為太守。又分建寧、牂柯置興古郡,以馬忠為牂柯太守。移南中勁卒、青羌萬餘家於蜀,為五部,所當無前,「軍」號〔為〕飛〔軍〕。分其羸弱配大姓焦、雍、婁、爨、孟、量、毛、李為部曲,置五部都尉,號五子。故南人言四姓五子也。以夷多剛很,不賓大姓富豪;乃勸令出金帛,聘策惡夷為家部曲,得多者奕世襲官。於是夷人貪貨物,以漸服屬於漢,成夷漢部曲。亮收其俊傑建寧爨習,朱提孟琰及獲為官屬,習官至領軍,琰,輔漢將軍,獲,御史中丞。出其金、銀、丹、漆,耕牛、戰馬,給軍國之用,都督常用重人。
【訳】
建興三年春、諸葛亮が南征した。〈安上から〉水路によって〔安上から〕越嶲に入った。これとは別に馬忠を派遣して牂柯を伐たせ、李恢を派遣して益州に向かわせた。犍為太守の広漢の王士を益州太守とした。高定元は旄牛、定笮、卑水から多くの塁を築いて守った。諸葛亮は高定元の軍勢が集合するのを待ってまとめて討とうとし、卑水に軍を置いた。高定元の部曲は雍闓および士〈庶〉らを殺し、孟獲が雍闓に代わって主となった。諸葛亮は高定元を斬り、馬忠は牂柯を破り、李恢は南中で敗れた。夏五月、諸葛亮は瀘水を渡り、益州に進軍した。孟獲を生け捕りにして軍中に置き、「わが軍をどう思うか」と問うた。孟獲は「こんなものだと分かっていれば簡単に勝てたものを」と答えた。諸葛亮は北に務めがあるのに南中がよく叛乱するため、孟獲には知恵を極めて当たるのがよいと考えた。そこで孟獲を釈放して軍に戻らせ、あらためて戦わせた。合計七回捕虜とし、七回釈放した。孟獲らは心服し、夷も漢も善民に戻ろうと思った。諸葛亮が再び孟獲に問うと、孟獲はこう答えた「明公は天威そのものです。辺境の民は当分悪事を成しません」秋、ついに四郡を平定した。益州を改めて建寧とし、李恢を太守とし、安漢将軍を加え、交州刺史を領させ、治所を味県に移した。建寧、越嶲を分けて雲南郡を置き、呂凱を太守とした。また建寧、牂柯を分けて興古郡を置き、馬忠を牂柯太守とした。南中の強卒、青羌の一万余家を蜀に移して五部とし、その部隊の前に当たるところ無く、〈軍の〉号を飛〔軍とした〕。その弱い者を分けて大姓の焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李に配して部曲とし、五部都尉を置き、五子と号した。ゆえに南人は四姓を五子という。夷は多くは傲岸で大姓富豪を尊敬しないため、金帛を出すよう勧め、策を用いて悪夷を部曲とさせ、多くを得たものは世襲官とさせた。このため夷は貨物を貪るようになり、しだいに漢に服し属していき、夷漢部曲となった。諸葛亮はその中の俊傑として建寧の爨習、朱提の孟琰および孟獲を得て官属とした。爨習の官は領軍に至り、孟琰は輔漢将軍に、孟獲は御史中丞に至った。南中から出る金、銀、丹、漆,耕牛、戦馬は国の軍用に供され、南中の都督には常に重要な人物を用いた。
四、
【原文】
李恢卒後,以蜀郡太守犍為張翼為都督。翼持法嚴,不得殊俗和。夷帥劉冑反,徵翼,以馬忠為代。忠未至,翼脩攻戰方略、資儲。群下懼。翼曰:「吾方臨戰場,豈可以絀退之故,廢公家之務乎?」忠至,承以滅冑。「蜀賜翼爵關內侯。」忠在南,柔遠能「爾」〔邇〕,甚垂惠愛,官至鎮南大將軍。卒後,南人為之立祠,水旱禱之。以蜀郡張表為代,加安南將軍。又以犍為楊「義」〔羲〕為參軍,副貳之。表後,以南郡閻宇為都督,南郡霍弋為參軍。弋甚善參毗之禮,遂代宇為監軍、安南將軍。撫和異俗,為之立法施教,輕重允當,夷晉安之。及晉世,因仍其任。時交趾不附,假弋節遙領交州刺史,得以便宜選用長吏。今官和解夷人及適罰之,皆依弋故事。弋卒,子在「龔」〔襲〕領其兵,和諸姓。
【訳】
李恢が亡くなった後、蜀郡太守の犍為の張翼を都督とした。張翼は法の執行が厳しく、習俗を異にする者たちの和を得ることができず、夷の頭目の劉冑が反した。張翼を呼び戻して馬忠に交代させることにした。馬忠がまだ到着しないうちに張翼は戦略と軍資を準備した。部下たちは恐れた。張翼はこう言った「私は戦場に臨んでいるのだ。役職から外されたからといって国家の務めを廃することができようか」馬忠が到着すると張翼が準備したものを受け継いで劉冑を滅ぼした。〈蜀は張翼に関内侯の爵を賜った。〉馬忠は南では遠きを懐柔して近くさせ、はなはだ恵愛を垂れ、官は鎮南大将軍に至った。馬忠が亡くなった後、南人は馬忠のために祠を立て、洪水や日照りにはここに祈った。蜀郡の張表を代りとして安南将軍を加えた。また犍為の楊〈義〉〔羲〕を参軍として張表を輔佐させた。張表の後には南郡の閻宇を都督とし、南郡の霍弋を参軍とした。霍弋は参毗の礼に精通しており、閻宇に代わって監軍、安南将軍となった。異俗を慰撫して和し、彼らのために法を立て教えを施し、秩序は適切となり夷も漢人もこれに安んじた。晋の世になってもその任にあった。その頃交趾は服さず、霍弋に節を仮して交州刺史を遥領させ、便宜によって長吏を選べるようにさせた。現在、官が夷人と和解し適切に罰することができるのはみな霍弋の業績のおかげである。霍弋が亡くなると霍弋の子が〈龔〉〔襲〕でその兵を領し、諸姓を和させた。
【原文】
晉「以」巴西太守吳靜,在官數年,撫卹失和。軍司鮮于嬰表徵靜還。「嬰」因〔以嬰〕代之。泰始六年,以益州大,分南中四郡為寧州,嬰為刺史。咸寧五年,尚書令衛瓘奏兼并州郡,太康「三」〔五〕年,罷寧州。置南夷〔府〕,以天水李毅為校尉,持節統兵,鎮南中,統五十八部夷族都監行事。每夷供貢南夷府,入牛金旃馬;動以萬計;皆豫作「忿恚」〔念羨〕致校尉官屬。其供郡、縣亦然。南人以為饒。自四姓子弟仕進,必先經都監。
【訳】
晋の巴西太守の呉静が官にあること数年で施政が和を失った。軍司の鮮于嬰が呉静を懲戒して帰還させるよう上表し、鮮于嬰が呉静と〈代わった〉〔交代させられた〕。泰始六年、益州が大きいため南中四郡を分けて寧州とし、鮮于嬰が刺史となった。咸寧五年、尚書令の衛瓘が州郡を併合するよう奏上した。太康〈三〉〔五〕年、寧州を廃した。南夷〔府〕を置き、天水の李毅を校尉として節を持たせて兵を統べさせ、南中を統治させ、五十八部の夷族の都監の行政を統括させた。夷が南夷府に供貢するたびに牛、金、
【原文】
夷人大種曰昆,小種曰叟,皆曲頭,木耳環,鐵裹結。無大侯王,如汶山、漢嘉夷也。夷中有桀、黠、能言議屈服種人者,謂之「耆老」,便為主。論議好譬喻物,謂之《夷經》。今南人言論,雖學者,亦半引《夷經》。與夷為姓曰「遑耶。」諸姓世亂、犯法,輒依之藏匿。或曰:有為官所法,夷或為「報」〔執〕仇。與夷至厚者,謂之「百世遑耶」,恩若骨肉。「為其逋逃之藪。」故南人輕為禍變,恃此也。其「速」〔俗〕徵巫鬼,好詛盟,投石結草,官常以盟詛要之。諸葛亮乃為夷作圖譜:先畫天地,日月,君長,城府,次畫神龍;龍生夷,及牛馬羊;後畫部主吏,乘馬幡蓋,巡行安卹;又畫牽牛負酒、齎金寶詣之之象,以賜夷。夷甚重之,許致生口直。又與瑞錦、鐵券,今皆存。每刺史、校尉至,齎以呈詣。動亦如之。
【訳】
夷人の大種を昆と言い、小種を叟と言う。みな曲頭、木耳環、鉄裹に結う。大侯王は無い。汶山、漢嘉の夷のごとくである。夷中に知恵がまわり弁が立ち議論で種人を屈服させる者があればその者を「耆老」と言い、その者を主とする。論議では比喩を好み、これを『夷経』と言う。現代の南人の言論では学者であっても半ばは『夷経』を引用する。夷と姓をなす者を「遑耶」と言う。諸姓が法をおかせば遑耶に頼ってかくまわれる。官によって法に処せられる者があれば、夷はその者のために仇を討つこともあるという。夷との交際が厚い者を「百世遑耶」と言い、恩は骨肉のごとくである。南人が軽々しく禍変を起こすのはこの交誼を頼りにしているからである。その風俗は巫鬼を求め神との盟約を好み、石を投げ草を結ぶ。官は常に神への盟約で彼らを統治した。諸葛亮は夷のために図鑑を作り、まず天地、日月、君長、城府を描き、次に神龍を描いた。その龍は夷を生み、牛馬羊に及ぶ。その後に部の役人が馬や馬車で巡行慰撫する様を描き、また牛を引き酒を背負い、金宝を贈り物として役人に詣でる様を描き、夷に与えた。夷はこれをはなはだ重んじ、生口の対価を納入することを承知した。また瑞錦、鉄券を与えた。これらはみな現存している。刺史、校尉が至るたびに夷はいつもこれらを持って来た。
五、
【原文】
毅後,永昌呂祥為校尉。祥後數〔年〕「人」,「李」廣漢〔李毅〕從雲南、犍為郡守為校尉。久之,建寧太守巴西杜俊、朱提太守梓潼雍約,懦鈍無治,政以賄成。俊奪大姓鐵官令毛詵、中郎李叡部曲,致詵弟耐罪。朱提大姓太中大夫李猛有才幹,弟為功曹,分當察舉,而「俊」約受都尉雷逢賂,舉逢子炤、孝廉,不禮猛,猛等怨之。
太安元年秋,詵、叡「猛」逐俊以叛。猛貽之書曰:「昔魯侯失道,季氏出之。天之愛民,君、師所治。知足下追踵古人,見賢思齊。足下箕帚,枉慚吾郡。」亦逐約,應之作亂。眾〔各〕數萬。毅討破之,斬詵首。叡走依遑耶五「蔡」〔苓〕夷帥于陵承。猛箋降曰:「生長遐荒,不達禮教,徒與李雄和光合勢。雖不能營師五丈,略地渭濱;冀北斷褒斜,東據永安。退考靈符,晉德長久,誠非狂夫所能干。輒表革面,歸罪有司。」毅惡其言,遂誘殺之。
部永昌從事江陽孫辨,上南中形勢:「七郡斗絕,晉弱夷強。加其土人屈塞。應復寧州,以相鎮慰。」冬十一月丙戌,詔書復置寧州。增統牂柯、益州、朱提,合七郡,〔毅〕為刺史。加龍驤將軍,進封成都縣侯。
【訳】
李毅の後、永昌の呂祥が校尉となった。呂祥の後数〔年〕〈人〉、〈李〉広漢〔の李毅〕が雲南、犍為の郡守から校尉となった。それが長く続いたが、建寧太守の巴西の杜俊と朱提太守の梓潼の雍約は軟弱で無力であり治まらず、政治は賄賂で成り立っていた。杜俊は大姓の鉄官令の毛詵および中郎の李叡の部曲を奪い、毛詵の弟を耐罪(ひげ切りの刑)に処した。朱提の大姓の太中大夫の李猛は才幹があり、李猛の弟は功曹であり、それぞれ察挙(人材の推薦)を受けるのを待っていた。しかし〈杜俊〉雍約は都尉の雷逢の賄賂を受けて雷逢の子の雷炤を孝廉に挙げ、李猛を礼遇しなかった。李猛らはこれを怨んだ。
太安元年秋、毛詵、李叡〈李猛〉は杜俊を放逐して叛いた。李猛は書を送って言った「むかし魯侯が道を失い、季氏が出ました。天が民を愛するのは君師が治めているところです。あなたが古人にならい、賢人にまみえ、古人と思いは同じだということは私は知っています。しかしあなたは台無しにして郡を辱めました」また雍約を放逐し、これに応じて乱をなした。人数は〔それぞれ〕数万となった。李毅はこれを討ち破り、毛詵の首を斬った。李叡は逃走して遑耶(遑耶については上記の「四、」で言及あり)である五〈蔡〉〔苓〕の夷の長の于陵承に頼った。李猛は降伏することを書面にしたためて言った「僻地に生まれ育ち、礼教に達せず、李雄に付和雷同しました。五丈原に駐屯し渭濱を攻略することは叶わないとしても、北は褒谷斜谷の要害を断ち、東は永安に拠りたいものです。退いて霊符を見ますに、晋の德は長久にして、誠に
部永昌從事の江陽の孫弁は南中の形勢を上申して言った「七郡は隔たっており、晋は弱く夷は強く、そのうえ現地人は偏屈です。寧州を復活させて鎮撫するべきです」冬十一月丙戌、詔によって寧州が復活した。牂柯、益州、朱提を増やして統合し、合せて七郡として〔李毅を〕刺史とし、龍驤将軍を加え、封爵を進めて成都県侯とした。
【原文】
〔太安〕二年,于陵承詣毅,請恕叡罪,毅許之。叡至,群下以為詵、叡破〔亂〕州土,必殺之,毅不得已,許諾。及叡死,于陵承及詵、猛遑耶怒,扇動謀反,奉建寧太守巴西馬「恢」〔義〕為刺史,燒郡。偽發,毅方疾作,力出軍。初以救「恢」〔義〕,及聞其情,乃殺「恢」〔義〕。夷愈強盛,破壞郡縣,沒吏民。會毅疾甚,軍連不利,晉民或入交州,或入永昌、牂柯,半亦為夷所困虜。夷因攻圍州城。毅但疾力固孤城,病篤不能戰討。時李特、李雄作亂益州,而所在有事,救援莫至。毅上疏陳謝:「不能式遏寇虐,疾與事遇,使虜游魂。兵穀既單,器械窮盡,而求救無望,坐待殄斃。若必不垂矜憂,乞請大使,及臣尚存,加臣重罪。若臣已死,〔必〕陳屍為戮。」積四年,光熙元年春三月,毅薨。子釗任洛,還赴。到牂柯,路塞。停住交州。文武以毅女秀明達有父才,遂奉領州事。秀初適漢嘉太守廣漢王載。載將家避地在南,故共推之,又以載領南夷龍驤參軍。秀獎勵戰討,食糧已盡,人但「樵」〔焦〕草、炙鼠為命。秀伺夷怠緩,輒出軍掩破。首尾三年,釗乃得達。丁喪,文武復逼釗領州府事。毅故吏毛孟等詣洛求救,至欲自刎,懷帝乃下交州,使救助之。以釗為平寇將軍,領南夷護軍。遣御史趙濤,贈毅少府,諡曰威侯。交州刺史吾彥,遣子威遠將軍咨以援之。
【訳】
〔太安〕二年、于陵承が李毅を訪問し、李叡の罪を許すよう請うた。李毅は許可した。李叡が戻ると人々は毛詵と李叡が州を破壊する〔乱す〕だろうと考え、絶対に李叡を殺そうとし、李毅はやむをえず許した。李叡が死ぬと、于陵承および毛詵、李猛の遑耶は怒り、謀反を扇動し、建寧太守の巴西の馬〈恢〉〔義〕を刺史に奉じて郡を焼き、偽の命令を発した。李毅は折から病気になったが頑張って軍を出した。初め馬〈恢〉〔義〕を救ったが、実情を聞くに及んで馬〈恢〉〔義〕を殺した。夷はいよいよ強盛になり、郡県を破壊し吏民を滅ぼした。折から李毅は病気がひどくなり、軍はずっと有利にいかず、晋の民が交州や永昌や牂柯に入れば半ばは夷に捉えられた。こうして夷は州城を包囲した。李毅は病気でありながら孤城を堅守し、病が篤く戦うことができなかった。このころ李特、李雄が益州で乱をなし、そこが有事であったため、李毅のところには救援が来なかった。李毅は上疏して陳謝した「賊を制止することができず、病気がたまたま大事の発生と重なってしまい、異民族に勝手をさせてしまっています。兵も兵糧もすでに尽き、器械も尽きましたが、求救の望みもなく、座して壊滅を待つばかりです。もしこちらの情勢に配慮しないのであれば、使者に来ていただき、そのときまだ臣の命があれば重罪を加えて下さい。もし臣がすでに死んでいれば、〔必ず〕屍をさらして罰として下さい」そのまま四年経ち、光熙元年春三月に李毅は亡くなった。子の李釗が洛陽での官に任じられ、帰還して赴任しようとした。牂柯に至り、路が塞がっていたため交州で止まり滞在した。文官武官たちは李毅の娘の李秀が明達で父の才があるため、李秀を奉じて州の事を領させた。李秀は初めは漢嘉太守の広漢の王載に嫁いだ。王載の家が南に避難するにあたり、共に推挙して王載に南夷竜驤参軍を領させた。李秀は戦いを奨励し、食糧がすでに尽き、人は草を焼き鼠を炙って命を繋いだ。李秀は夷がたるんでいる様子を察知し、軍を出して奇襲し破った。戦うこと三年、李釗は丁喪に到達することができた。文官武官たちはまた李釗に州府の事を領するよう迫った。李毅の故吏の毛孟らは洛陽に行って救援を求め、自刎しようとするところまでいった。そこで懐帝は交州に命令を下して救助させた。李釗を平寇將軍とし、南夷護軍を領させた。御史の趙濤を派遣し、李毅に少府の官を追贈し、威侯と諡した。交州刺史の吾彦は子の威遠将軍の吾咨を派遣して救援した。
六、
【原文】
朝廷以廣漢太守魏興王遜為南夷校尉、寧州刺史,代毅。自永嘉元年受除,四年乃至。遙舉建寧董敏為秀才。郡久無太守,功曹周悅行郡事,輕敏,不下其板。遜至,怒,殺悅。悅弟秦臧長周昺,合夷叟謀:以趙濤父混昔為建寧,有德惠,欲殺遜樹濤。遜誅之,并殺濤。夷晉莫不惶懼。表釗為朱提太守,治南廣,禦〔李〕雄。時荒亂後,倉無▢粟,眾無一旅,官民虛「弱」〔竭〕,繩紀弛廢。遜惡衣菜食,招集〔民〕夷。「民」夷徼厭亂,漸亦返善。勞來不怠。數年克復。以五「茶」〔苓〕夷昔為亂,首圖討之;未有致罪。會夷發夜郎莊王墓。遜因此,遂討滅之。及討惡獠剛夷數千落。威〔震〕南方。官至平西、安南將軍,又兼益州刺史,加散騎常侍,封褒中伯。而嚴猛太過,多所誅鋤。犍為太守朱提雷炤、流民陰貢、平樂太守董霸,破牂柯、平夷、南廣,北降李雄。建寧爨量,與益州太守李▢、梁水太守董慬,保興古盤南以叛。〔李〕雄遣叔父驤破越嶲,伐寧州。遜使督護雲南姚岳距驤於堂螂縣。違遜指授,雖大破之,驤不獲。
【訳】
朝廷は広漢太守の魏興の王遜を南夷校尉、寧州刺史として李毅と交代させた。永嘉元年に任官してから四年で到着した。遥かに建寧の董敏を秀才に推挙した。郡には久しく太守がおらず、功曹の周悦が郡の事を行っていた。周悦は董敏を軽んじて任官の文書を回さなかった。王遜が至ると怒って周悦を殺した。周悦の弟の秦臧の長の周
【原文】
太興四年,遜發病薨。州人推〔遜〕中子堅領州事。
永昌元年,晉朝更用零陵太守南陽尹奉為寧州刺史、南夷校尉,加安西將軍。奉威刑緩鈍,政治不理。咸和八年,遂為雄弟壽所破獲。南中盡為雄所有。惟牂柯謝恕不為壽所用,〔壽破之。壽去〕遂〔復〕保郡「獨」為晉。官至撫夷中郎將、寧州刺史、冠軍〔將軍〕。「是歲,咸和八年也。」
【訳】
太興四年、王遜は病を発して亡くなった。州の人々は〔王遜の〕中子の王堅を推薦して州の事を領させた。
永昌元年、晋朝は更に零陵太守の南陽の尹奉を任用して寧州刺史、南夷校尉とし、安西将軍を加えた。尹奉は刑を振るうことが緩鈍で、政治はおさまらなかった。咸和八年、遂に李雄の弟の李寿に破られ獲えられた。南中はことごとく李雄の所有となった。ただ牂柯の謝恕だけが李寿に所用されることなく、〔李寿はこれを破った。李寿が去り〕遂に〔また〕郡〈だけが〉保たれ晋となった。官は撫夷中郎将、寧州刺史、冠軍〔将軍〕に至った。〈この年は咸和八年である。〉
郡県
七、
牂柯郡
【原文】
牂柯郡,漢武帝元鼎「二」〔六〕年開。屬縣,漢十七,戶「六」〔二〕萬。及晉,縣四,戶五千。去洛五千六百一十里。郡上值天井,故多雨潦。俗好鬼巫,多禁忌。「畬」〔●〕山為田。無蠶桑。頗尚學書。少威「棱」〔儀〕。多懦怯。寡畜產,雖有僮僕,方諸郡為貧。王莽更名牂柯曰同亭。郡不服。會公孫述「時」〔據〕「三」〔巴〕蜀,大姓龍、傅、尹、董氏與功曹謝暹保郡,聞「漢」世祖在河北,乃遠使使由番禺江出,奉貢漢朝。世祖嘉之,號為義郎。明、章之世,毋斂人尹珍,字道真,以生遐裔,未漸庠序,乃遠從汝南許叔重受五經。又師事應世叔學圖緯,通三材。還以教授。於是南域始有學焉。珍以經術選用,歷尚書丞、郎,荊州刺史。「而世叔為司隸校尉。師生並顯。」平夷傅「保」〔寶〕,夜郎尹貢,亦有名德,歷尚書郎、長安令,巴郡太守、彭城相,號南州人士。郡特多阻險,有延江、霧赤、煎水為池衛。少有亂,惟朱褒見誅。其郡守垂功名者,前有吳霸、陳立,後有漢中張亮則、廣漢劉寵、犍為費詩、巴西馬忠,皆著勳烈。晉元帝世,太守建寧孟才以驕暴無恩,郡民王清、范朗逐出之。刺史王遜怒,分鄨半為平夷郡,夜郎以南為夜郎郡。〔郡但〕四縣。
萬壽縣 郡治。有萬壽山。沮,本有鹽井,漢末時,夷民共詛盟不開。今三郡皆無鹽。
且蘭縣〔音沮。〕漢曰故且蘭。有柱蒲關「也」。〔有赤霧、煎水,入沅。〕
廣談縣
毋斂縣有剛「火」〔水〕也。
【訳】
牂柯郡は漢の武帝の元鼎〈二〉〔六〕年に開かれた。属県は漢には十七、戸数は〈六〉〔二〕万。晋に及び、県は四、戸数は五千。洛陽を去ること五千六百一十里。郡の上は天井に当たる。ゆえに大雨出水が多い。俗は鬼巫を好み、禁忌が多い。山を開墾して畑を作る。蚕桑はない。すこぶる学書を尊ぶが、威〈棱〉〔儀〕は少ない。多くは懦怯である。畜産は少なく、僮僕はあるものの諸郡は貧しい。王莽は牂柯を改名して同亭と言ったが郡は服さなかった。公孫述が〈三〉〔巴〕蜀に割拠した時、大姓の龍、傅、尹、董氏は功曹の謝暹と郡を保ち、〈漢の〉世祖が河北にいると聞くと遠く使者を派遣し番禺江を経由して漢朝に奉貢した。世祖はこれを
万寿県 郡の治所である。万寿山がある。沮にはもとは塩井があり、漢末に夷の民が共に盟約して塩井を開かないことにした。今の三郡にはみな塩がない。
且蘭県〔音は沮。〕漢には故且蘭と言った。柱蒲関がある。〔赤霧、煎水があり、沅水に合流する。〕
広談県
毋斂県 剛〈火〉〔水〕がある。
平夷郡
【原文】
平夷郡,晉元帝建興元年置。屬縣二。戶千。去建康,水,一萬三千里。〕
平夷縣 郡治。有●津,安樂水。山出茶、蜜。
鄨縣故犍為郡城也。不狼山,出鄨水,入「沅」〔延〕。有野生薜,可食。大姓王氏。
【訳】
平夷郡は晋の元帝の建興元年に置かれた。属県二。戸数千。建康を去ること水路で一万三千里。〕
平夷県 郡の治所である。䂪津、安楽水がある。山では茶、蜜がとれる。
夜郎郡
【原文】
夜郎郡,〔故〕夜郎國也。屬縣二。戶千。〔去建康,水,一萬三千里。〕
夜郎縣郡治。有遯水,通「廣」鬱林。有竹王三郎祠,甚有靈響也。
談指縣〔出丹。〕〔不津江,有瘴氣。〕
【訳】
夜郎郡は〔もとは〕夜郎国である。属県二。戸数千。〔建康を去ること水路で一万三千里。〕
夜郎県 郡の治所である。遯水があり、〈広〉鬱林を通る。竹王三郎の祠があり、はなはだ霊験あらたかである。
談指県 〔丹がとれる。〕〔不津江には瘴氣がある。〕
八、
晋寧郡
【原文】
晉寧郡,本「益州」〔滇國〕也。元鼎初〔置吏,分〕屬柯、越嶲。「漢武帝」元封二年,叟反,遣將軍郭昌討平之。因開為郡,治滇池上,號曰益州。漢屬縣二十四,戶二十萬。晉縣七,戶萬。去洛五千六百里。「司馬相如」韓說初開,得牛、馬、羊屬三十萬。漢乃募、徙死罪及奸豪實之。郡土大平敞,原田。多長松皋。有鸚鵡、孔雀、鹽池、田、漁之饒,金、銀、畜產之富。俗奢豪,難撫御,惟文齊、王阜、景毅、李顒及南郡董和為之防檢,後遂為善。蜀建興三年,丞相亮之南征,以郡民李恢為太守,改曰建寧,治味縣。寧州「別」建,〔分西七縣別立〕為益州郡。後太守李▢,恢孫也,與〔梁水〕「前」太守董慬,建「興」〔寧〕爨量共叛。寧州刺史王遜表改益州為晉寧郡。
滇池縣 郡治,故滇「國」〔邑〕也。有澤水,「週」〔周〕迴二百〔餘〕里。所出深廣,下流淺狹,如倒流,故曰滇池。長老傳言:池中有神馬,或交焉,即生駿駒。俗稱之曰「滇池駒」,日行五百里。〔有黑〕水神祠「祀」。亦有溫泉,如越嶲溫水。又有白蝟山,山無石,惟有蝟也。
同勞縣〔漢舊縣。〕
同安縣
連然縣有鹽泉,南中共仰之。
建伶縣
毋單縣〔漢舊縣,屬柯郡。建興中度。〕有丹。〕
秦臧縣〔漢舊。〕
【訳】
晋寧郡はもとは〈益州〉〔滇国〕である。元鼎の初年、〔吏をおいて分け〕牂柯、越嶲が属する。〈漢の武帝の〉元封二年、叟族が反し、将軍郭昌を派遣して討ち平らげた。これによって開いて郡とし、滇池の上流を治所として益州と号した。漢には属県二十四、戸数二十万。晋には県七、戸数一万。洛陽を去ること五千六百里。〈司馬相如が〉韓説が初めて開き、牛、馬、羊のたぐい三十万を得た。漢には死罪の者および奸豪を募り移住させて人口に充当した。郡土は多くは高地の平原、田畑である。松がたくさん生えている。鸚鵡、孔雀がおり、塩池、田があり、水産資源は豊かで、金、銀、畜産の富がある。風俗は奢豪であり、慰撫制御することは難しい。ただ文斉、王阜、景毅、李顒および南郡の董和は当地のために治安維持につとめ、のちに当地の人々と仲良くなった。蜀の建興三年、丞相諸葛亮が南征し、郡民の李恢を太守とし、建寧と改称して味県を治所とした。寧州を〈別に〉建て、〔西の七県を分けて別に立てて〕益州郡とした。後の太守の李逷は李恢の孫である。〔梁水の〕〈前の〉太守の董慬、建寧の爨量とともに叛した。寧州刺史の王遜は上表して益州を晋寧郡とした。
滇池県 郡の治所である。もとの滇〈国〉〔邑〕である。沢水があり、周囲は二百〔余〕里。水の出る所は深く広く、下流は浅く狭く、さかさまの流れのようである。ゆえに滇池と言う。長老はこう言い伝える「池中に神馬があり、これに交われば駿駒が生まれる。俗にこれを滇池駒と称し、日に五百里を行く。〔黑〕水神の祠がある〈を祀る〉。また温泉があり、越嶲の温水のごとくである。また白蝟山があり、山には石はなく、ただ
同労県〔漢の旧県である。〕
同安県
連然県 塩泉があり、南中はともにこれを仰いでいる。
建伶県
毋単県〔漢の旧県である。牂柯郡に属する。建興中期に渡った。〕丹がある。〕
秦臧県〔漢の旧。〕
九、
建寧郡
【原文】
建寧郡治,故庲降都督屯也,南人謂之「屯下」。屬縣晉〔初十七〕,「太安二年」分「為」〔置〕益州、平樂二郡〔后〕,「合」縣十三。戶萬。去洛五千六百三十九里。有五部都尉,四姓及霍家部曲。
味縣 郡治。有明月社,夷、晉不奉官,則官與共盟於此社也。
「牧」〔升〕麻縣 山出好升麻。有塗水。
同樂縣 大姓爨舊氏。
穀昌縣 漢武帝將軍郭昌討夷,平之;因名郭昌,以威夷。孝章時改為穀昌也。
同瀨縣 〔談虜山迷水所出,東至談入溫水。〕
雙柏縣〔出銀。〕
存䣖縣 雍闓反,結壘於縣山,繫馬枊柱生成林;今夷言「無雍梁〔林。」梁,夷〕言馬也。
昆澤縣〔有溫水。〕
漏江縣〔有漏江。〕依《水經注》文補。九十里出蠙口。
談槁縣 有濮獠。
伶丘 縣主獠。
脩雲縣
「新定」〔俞元〕縣 〔在河中洲上。〕〔南池〕〔橋水所出,東至毋單入溫水。懷山出銅。〕
【訳】
建寧郡の治所は、もとは庲降都督の屯であり、南人はこれを「屯下」と言う。属県は晋には〔初には十七〕、〈太安二年に〉分けて益州、平楽の二郡とし、〔後に〕〈合わせて〉県十三。戸数は一万。洛陽を去ること五千六百三十九里。五部都尉がおり、四姓および霍家の部曲である。
味県 郡の治所である。明月社があり、夷も晋も官を奉じることはせず、官とともにこの社で盟約を結ぶ。
〈牧〉〔升〕麻県 山ではよく升麻が取れる。塗水がある。
同楽県 大姓に爨旧氏。
穀昌県 漢の武帝の将軍郭昌が夷を討ち平らげたことにちなんで郭昌と名付け、夷を威圧した。章帝の時に穀昌と改名した。
同瀬県 〔談虜山から迷水が出て東に流れ、談に至り、温水に入る。〕
双柏県〔銀がとれる。〕
存䣖県 雍闓が反したとき県の山に塁を築き、馬を繋いだ柱が林となった。現在の夷は「無雍梁〔林」という。梁とは夷の〕言葉で馬のことである。
昆沢県〔温水がある。〕
漏江県〔漏江がある。〕九十里で蠙口に出る。
談槁県 濮・獠がいる。
伶丘県 主に獠である。
脩雲県
〈新定〉〔俞元〕県は〔河の中洲の上にある。〕〔南池〕〔橋から水が出て東の毋單に至り温水に入る。懐山から銅が出る。〕
平楽郡
【原文】
平樂郡,元帝建興元年,刺史〔王遜〕割建寧〔之〕〉新定、興遷二縣,新立平樂、三沮二縣,合四縣為「一」郡。後太守建寧董霸叛降李雄,郡縣遂省。寧州北屬,雄復為郡,以朱提李壯為太守。
〔新定縣郡治。有大澤。〕
〔興遷縣〕
〔平樂縣〕
〔三沮縣〕
【訳】
平楽郡 元帝の建興元年に刺史〔の王遜〕が建寧の新定、興遷の二県を割いて新たに平楽、三沮の二県を立て、四県を合わせて〈一〉郡とした。後に太守の建寧の董霸が叛して李雄に降り、郡県は省かれた。寧州は北に属し、李雄は再び郡として朱提の李壮を太守とした。
〔新定県 郡の治所である。大沢がある。〕
〔興遷県〕
〔平楽県〕
〔三沮県〕
十、
朱提郡
【原文】
朱提郡,本犍為南部,孝武帝元封二年置,屬縣四。建武後,省為犍為屬國。至建安二十年,鄧方為都尉,先主因易名太守。屬縣五,戶八千。去洛五千三百里。先有梓潼文齊,初為屬國。穿龍池溉稻田,為民興利,「亦」〔民〕為立祠。大姓朱、魯、雷、興、仇、遞、高、李,亦有部曲。其民好學,〔地〕濱犍為,號多士人,為寧州冠冕。
朱提縣 郡治。〔山出好銀。〕
堂螂縣 因山名也。出銀、鉛、白銅、〔銅〕、雜藥。有堂螂附子。
南秦縣 自僰道、南廣,有八亭,道通平夷。
漢陽縣 有漢水,入延江。
南昌縣 故都督治。有鄧安遠城也。
【訳】
朱提郡はもとは犍為の南部である。漢の武帝の元封二年に置かれた。属県は四。建武年間の後、省かれて犍為の属国となった。建安二十年にいたり、鄧方が都尉となって、先主はこれによって名を太守と変えた。属県は五、戸数は八千。洛陽を去ること五千三百里。先に梓潼の文斉がおり、初めて属国となった。竜池を穿って水田を灌漑し民のために利を興した。〈また〉〔民が〕このために祠を立てた。大姓は朱、魯、雷、興、仇、遞、高、李、また部曲がある。その民は学を好む。〔その地は〕犍為に接しており、士人が多いと号すること寧州のトップである。
朱提県 郡の治所である。〔山からよい銀が取れる。〕
堂螂県 山の名にちなむ。銀、鉛、白銅、〔銅〕、雑薬が取れる。堂螂附子がある。
南秦県 僰道、南広から八亭があり、道は平夷に通じている。
漢陽県 漢水があり、延江に入る。
南昌県 もとの都督の治所である。鄧安遠城がある。
南広郡
【原文】
南廣郡,蜀延熙中置,以蜀郡常竺為太守。蜀朝召竺,入為侍中,巴西令狐衷代之。建武「九」〔元〕年省。元帝世,刺史王遜移朱提〔郡〕治「郡」南廣。太守李釗數破雄,殺「賊」〔其〕大將樂初。後刺史尹奉卻郡還舊治。及雄定寧州,復置郡,以興古太守朱提李播為太守。屬縣四。戶千。自僰道至朱提,有水、步道。水道有黑水及羊官水,至險難行。步道度三津,亦艱阻。故行人為語曰:「猶溪、赤木,盤蛇七曲。盤羊、烏櫳,氣與天通。看都濩「訿」〔泚〕住柱呼尹。庲降賈子,左儋七里。」又有牛叩頭,馬搏〔頰〕阪。其險如此。土地無稻田、蠶桑,多蛇、蛭、虎、狼。俗妖巫,〔惑〕「惑」禁忌,多神祠。
南廣縣 郡治。漢武帝太初元年置。有鹽官。
臨何利縣〔有土鹽。〕
常遷縣
新興縣
【訳】
南広郡は蜀の延熙年間に置かれた。蜀郡の常竺を太守とした。蜀朝が常竺を召し、常竺は蜀の朝廷に入って侍中となった。巴西の令狐衷が常竺と交代した。建武〈九〉〔元〕年に省かれた。元帝の御世に刺史の王遜が朱提〔郡〕の治所を南広に移した。太守の李釗が何度も李雄を破り、〈賊の〉〔その〕大将の楽初を殺した。後に刺史の尹奉が郡を廃しもとの地所に戻った。李雄が寧州を平らげるとまた郡が置かれ、太守を復古して朱提の李播を太守とした。属県は四。戸数は千。僰道から朱提に至るには水路と道路がある。水路には黒水および羊官水があり、いたって険しく進みにくい。道路は三つの津を渡り、また艱阻である。ゆえにそこを行く人はこう言う「猶溪赤木 盤蛇たること七曲。盤羊烏櫳 気は天と通ず。看都濩〈訿〉〔泚〕住柱呼尹。庲降賈子、左儋七里(←この部分は分からなかったんですが、地形が険阻なことを歌ったものと思います)」また牛叩頭、馬搏〔頰〕阪がある。その険阻たることかくのごとくである。土地に稲田、蚕桑はなく、蛇、蛭、虎、狼が多い。俗は妖巫が禁忌を惑わしている。神祠が多い。
南広県 郡の治所である。漢の武帝の太初元年に置かれる。塩官がある。
臨何利県〔土塩がある。〕
常遷県
新興県
十一、
永昌郡
【原文】
永昌郡,古哀牢國。哀牢,山名也。其先有一婦人,名曰沙「壼」〔壺〕,依哀牢山下居,以捕魚自給。忽於水中觸「有」一沈木,遂感而有娠。度十月,產子男十人。後沈木化為龍,出謂沙「壼」〔壺〕曰:「若為我生子,今在乎?」而九子驚走。惟一小子不能去,「陪」〔倍〕龍坐。龍就而舐之。沙「壼」〔壺〕與言語,以龍與陪坐,因名曰元隆,猶漢言「陪」〔倍〕坐也。沙「壼」〔壺〕將元隆居龍山下。元「龍」〔隆〕長大,才武。後九兄曰:「元隆能與龍言,而黠,有智,天「之」〔所〕所,貴也。」共推以為王。時哀牢山下,復有一夫一婦產十女,元隆兄弟妻之。由是始有人民。皆象之:衣後著十尾,臂、脛刻紋。元隆死,世世相繼;分置小王;往往邑居,散在溪谷;絕域荒外,山川阻深,生民以來,未嘗通中國也。南中昆明祖之,故諸葛亮為其國譜也。
【訳】
永昌郡は昔の哀牢国である。哀牢は山の名である。むかし一人の婦人がおり、曰を沙〈壼〉〔壺〕といった。哀牢山の下に住み、魚をとらえて自給していた。あるとき水中に一本の沈木があるのに触れ、遂に感応して身ごもった。十月を経て男子十人を生んだ。後に沈木は竜に変化し、出てきて沙〈壼〉〔壺〕に言った「生んでくれた子供はどこにいる?」九人の子は驚いて逃げたが一人の小子は逃げることができず竜に陪席した。竜はその子を舐めた。沙〈壼〉〔壺〕は竜と言葉を交わし、竜に陪席したことにちなんでその子を元隆と名付けた。漢でいうところの陪坐という意味である。沙〈壼〉〔壺〕は元隆と一緒に竜山の下に住んだ。元〈竜〉〔隆〕は成長して才武があった。後に九人の兄たちはこう言った「元隆は竜と話すことができ、知恵がまわり賢い。天の貴ぶところである。」ともに推戴して王とした。このとき哀牢山の下にまた一夫一婦で十女を生んだ者があり、元隆兄弟はこれを妻とした。こうして始めて人民が生じた。みなこれを象徴して衣のうしろに十尾を付け、臂、脛に入れ墨を刻んだ。元隆が死ぬと世世あとを継いでいき、それぞれ小王を置いた。多くは邑に住み、溪谷にも散在した。絶域の荒外地で、山川は険しく深く、民が生じて以来いまだかつて中国と通じなかった。南中の昆明はこれを祖とした。このため諸葛亮は彼らのために図譜を作った(四、で書かれている図譜(図鑑)のことか)。
【原文】
孝武時,通博南山,度蘭「倉」〔滄〕水、「耆」●溪,置嶲唐、不韋二縣。徙南越相呂嘉子孫宗族實之,因名不韋,以彰其先人〔之〕惡。行人歌之曰:「漢德廣,開不賓。渡博南,越蘭津。渡蘭「倉」〔滄〕。為他人。」渡蘭「倉」〔滄〕水以取哀牢地。哀牢轉衰。至世祖建武二十三年,王扈栗遣兵乘箄船南攻鹿茤。鹿茤民弱小,將為所擒,會天大震雷,疾風暴雨,水為逆流,箄船沈沒,溺死者數千人。後扈栗復遣六王攻鹿茤。鹿茤王迎戰,大破哀牢軍,殺其六王。哀牢人埋六王,夜,虎掘而食之。哀牢人驚怖,引去。扈栗懼,謂耆老曰:「哀牢略徼,自古以來,初不如此。今攻鹿茤,輒被天誅。中國有受命之王乎?是何天祐之明也!漢威甚神。」即遣使詣越嶲太守,願率種人歸義奉貢。世祖納之,以為西部屬國。其地東西三千里,南北四千六百里;有穿「▢」〔鼻〕「襜」〔儋〕〉耳種,閩、越濮,鳩獠。其渠帥皆曰王。
【訳】
漢の武帝の時、博南山が通じた。蘭〈倉〉〔滄〕水〈耆〉●溪を渡り、嶲唐、不韋の二県を置いた。南越の相の呂嘉の子孫宗族を移住させたことにちなんで不韋県という。先人〔の〕悪をあらわしておくためである。行く人々はこう歌った「漢の德は広く、服従しない地を開いた。博南を渡り、蘭津を越え、蘭〈倉〉〔滄〕を渡れば他人である。」蘭〈倉〉〔滄〕水を渡るには哀牢の地を取り、哀牢は衰えた。世祖の建武二十三年に至り、王の扈栗は兵を派遣して大筏に乗って南の鹿茤を攻めさせた。鹿茤の民は弱小で、捉えられそうであったが、そのとき天が大いに震雷し、疾風暴雨が興り、水が逆流して大筏を沈没させ、溺死者数千人がでた。のちに扈栗はまた六王を派遣して鹿茤を攻めた。鹿茤王は迎戦し、哀牢軍を大いに破ってその六王を殺した。哀牢人が六王を埋めると、夜に虎が掘ってこれを食べた。哀牢人は驚き怖れて退いた。扈栗は懼れて古老に言った「哀牢の境界の攻略は古来はこのようではなかった。いま鹿茤を攻めて天誅を被った。中国には天命を受けた王はいるのだろうか。天祐の明であることよ。漢の威は神がかっている」そこで使者を派遣して越嶲太守を訪問し、種人を率いて義に帰順し奉貢したいと願った。世祖はこれを容れ、西部属国とした。その地は東西三千里、南北四千六百里。穿〈胷〉〔鼻〕〈襜〉〔儋〕耳の人種には閩、越濮、鳩獠がある。その頭目はみな王と言う。
【原文】
孝明帝永平十二年,哀牢「柳」〔抑〕狼遣子奉獻。明帝乃置郡,以蜀郡鄭純為太守。屬縣八。戶六萬。去洛六千九百里。寧州之極西南也。有閩濮、鳩獠、僄越、裸濮、身毒之民。土地沃腴,〔宜五穀。出銅、錫、〕黃金、光珠、虎魄、翡翠、孔雀、犀、象、蠶、桑、綿、絹、采帛、文繡。又有貊獸,食鐵;猩猩獸,能言,其血可以染朱罽。有大竹,名濮竹,節相去一「丈」〔尺〕,受一斛許。有梧桐木,其華柔如絲,民績以為布,幅廣五尺以還,潔白不受污,俗名曰「桐華布」,以覆亡人,然後服之,及賣與人。有「闌」〔蘭〕干細布,蘭干獠言紵也,織成,文如綾錦。又有罽、旄、帛、疊、水精靃、琉璃、軻蟲、蚌珠。「宜五穀,出銅錫」太守著名績者,自鄭純後,有蜀郡張化、常員,巴郡沈稚、黎彪,然顯者猶鮮。章武初,郡無太守,值諸郡叛亂,功曹呂凱奉郡丞蜀郡王伉保境六年。
丞相亮南征,高其義,表曰:「不意永昌風俗〔敦直〕乃爾。」以凱為雲南太守,伉為永昌太守,皆封亭侯。李恢遷濮民數千落於雲南、〉建寧界,以實二郡。凱子祥,太康中獻光珠五百斤,還臨本郡,遷南夷校尉。祥子,元康末為永昌太守。值南夷作亂,閩濮反,乃南移永壽,去故郡千里,遂與州隔絕。呂氏世官領郡,於今三世矣。大姓陳、趙、〔謝〕、楊氏。
不韋縣 故郡治。〔出鐵。〕
比蘇縣 〔有鹽。〕
哀牢縣 〔故哀牢王邑。〕
永壽縣 今郡治
嶲唐縣 〔故益州西部都尉治。〕有周水,從徼外來。
雍鄉縣
南里縣 有翡翠、孔雀。
博南縣〔西〕山高四十里,越之,得蘭滄水。有金沙,以「火」〔水洗取〕,融之,為黃金。有光珠穴,出光珠。有虎魄,能吸芥。又有珊瑚。
【訳】
漢の明帝の永平十二年、哀牢の〈柳〉〔抑〕狼が子を派遣して奉献した。明帝は郡を置き、蜀郡の鄭純を太守とした。属県は八。戸数は六万。洛陽を去ること六千九百里。寧州の極西南である。閩濮、鳩獠、僄越、裸濮、身毒の民がいる。土地は肥沃〔で五穀によい。銅、錫、〕黄金、光珠、虎魄、翡翠、孔雀、犀、象、蚕、桑、綿、絹、采帛、文繡を産する。また、鉄を食べる貊獣、話すことができる猩猩獣がいる。その血で朱罽(
丞相諸葛亮の南征は義を尊重し、上表してこう言った「永昌の風俗がかくも〔敦厚でまっすぐだとは〕思いませんでした」呂凱を雲南太守とし、王伉を永昌太守として、みな亭侯に封じた。李恢は濮の民数千集落を雲南、建寧の境界に移し、二郡を満たした。呂凱の子の呂祥は太康年間に光珠五百斤を献上し、本郡に帰還して南夷校尉に転任した。呂祥の子は元康年間の末に永昌太守となった。南夷が乱をなすと閩・濮が反したため、南の永寿に移った。もとの郡から千里離れ、州と隔絶してしまった。呂氏が代々官について郡を領すること、ここまでで三世である。大姓には陳、趙、〔謝〕、楊氏がある。
不韋県 もとの郡の治所である。〔鉄がとれる。〕
比蘇県 〔塩がある。〕
哀牢県 〔もとの哀牢王の邑である。〕
永寿県 今の郡の治所である。
嶲唐県 〔もとの益州西部都尉の治所である。〕周水があり、境外から流れてきている。
雍郷県
南里県 翡翠、孔雀がある。
博南県〔西〕山の高さ四十里、これを越えて蘭滄水がある。金沙があり、〈火〉で〔水洗して取り〕溶かして黄金にする。光珠穴があり光珠が取れる。虎珀があり、芥を吸うことができる。また珊瑚がある。
十二、
雲南郡
【原文】
雲南郡,蜀建興三年置,屬縣七。〔晉縣九。〕〔分置河陽郡後,縣五。〕戶萬。去洛六千三百四十三里。本雲「川」〔山〕地。有熊倉山,上有神鹿,一身兩頭,食毒草。有上方、下方夷。亦出〔桐〕華布孔雀常以二月來翔,月餘而去。土地有稻田、蓄牧,但不蠶桑。
雲南縣 郡治。〔咸寧五年,分置雲平縣,〕〔為刺史治。〕〔後省併。〕
葉榆縣 〔葉榆澤在東,〕有河洲。
遂久縣 有繩水「也」。
弄棟縣 有無血水。「水出連山」。
蜻蛉縣 有鹽官、濮水。〔禺〕同「出」山,有碧雞、金馬,光影倏忽,民多見之;有山神。漢宣帝遣諫議大夫蜀郡王褒祭之,欲致雞、馬。褒道病卒,故不宣著。
其縣二別為郡。
【訳】
雲南郡は蜀の建興三年に置かれた。属県は七である。〔晋には県は九。〕〔河陽郡を分けて設置した後は県は五。〕戸数は一万。洛陽を去ること六千三百四十三里。もとの雲〈川〉〔山〕地である。熊倉山があり、山上には神鹿がいる。一身両頭で、毒草を食べる。上方、下方の夷がいる。また〔桐〕華布がある。孔雀がいつも二月に飛んできてひと月余りで去る。土地では稲田、蓄牧をするが蚕桑はしない。
雲南県 郡の治所である。〔咸寧五年に雲平県を分けて設置し、〕〔刺史の治所となった。〕〔後に省いて併合した。〕
葉榆県 〔葉榆沢が東にある。〕河洲がある。
遂久県 縄水がある。
弄棟県 無血水がある。〈水は連山に出る〉。
蜻蛉県 塩官がある。濮水が山から出る。碧雞、金馬がおりチカッと光る。民の多くがそれを目撃している。山神がいる。漢の宣帝は諫議大夫の蜀郡の王褒を派遣してこれを祭り、碧雞、金馬を得ようとした。王褒が道中で病没したため知られていない。
その県二つが分かれて郡となった。
河陽郡
【原文】
河陽郡,刺史王遜分雲南置。屬縣四。戶千。
河陽縣郡治。在河中源洲上「也」。
〔姑復縣〕〔有鹽池澤。〕〔本姑繒夷邑也。〕
〔永寧縣〕
〔邪龍縣〕
【訳】
河陽郡は刺史の王遜が雲南を分けて設置した。属県は四。戸数は千。
河陽県 郡の治所である。河中の源の洲上にある。
〔姑復県〕 〔塩池沢がある。〕〔もとは姑繒夷の邑である。〕
〔永寧県〕
〔邪竜県〕
十三、
梁水郡
【原文】
梁水郡,刺史王遜分〔興古〕置。「在興古之盤南」。〔屬縣七。〕〔戶三千。〕〔去洛七千里。〕〔大興中,爨量保盤南以應李雄。梁水太守董慬附之。雄遣李驤援量。敗還。咸和八年,再遣李壽取寧州。因以量據地置交州。爨深為刺史,治梁水。咸康中,蜀有內難,晉取蜀交州。殘存只數縣。李壽即位,省交州,仍為郡。〕
梁水縣 郡治。有振山,出銅。
賁古縣 山出銀、銅、鉛、「鐵」〔錫〕。
西隨縣
〔毋棳縣〕
〔進乘縣〕
〔新豐縣〕
〔建安縣〕
【訳】
梁水郡は刺史の王遜が〔興古を〕分けて設置した。〈興古の盤南(盤江の南の地域)にある。〉〔属県は七。〕〔戸数は三千。〕〔洛陽を去ること七千里。〕〔大興年間に
梁水県 郡の治所である。振山があり銅がとれる。
賁古県 山から銀、銅、鉛、〈鉄〉〔錫〕がとれる。
西隨県
〔毋棳県〕
〔進乗県〕
〔新豊県〕
〔建安県〕
興古郡
【原文】
興古郡,建興三年置,屬縣十一。〔分置梁水、西平郡後,縣七。〕戶四萬。去洛五千八百九十里。多「鳩」獠、濮。特有瘴氣。自梁水、興古、西平三郡少穀,有桄榔木,可以作▢,以牛酥酪食之,人民資以為糧。欲取其木,先當祠祀。
〔宛〕溫縣 郡治。元鼎二年置。〔有盤江。〕
律高縣 西有石空山,出錫。東南有▢町山,出錫。
鐔封縣 有溫水。
句町縣 故句町王國「名」也。其置,自濮王。姓毋。漢時受封迄今。
漢興縣
勝休縣 有河水「也」。
都唐縣 故名都夢縣。
【訳】
興古郡は建興三年に設置された。属県は十一。〔梁水、西平郡を分けて設置した後は県は七。〕戸数は四万。洛陽を去ること五千八百九十里。〈鳩〉獠、濮が多い。特に瘴気がある。梁水、興古、西平の三郡から穀類は少ない。桄榔木があり、麵を作ることができる。牛の酥酪を食し、人民の糧としている。その木を取るにはまず祠をまつる。
〔宛〕温県 郡の治所である。元鼎二年に設置された。〔盤江がある。〕
律高県 西に石空山があり、錫がとれる。東南に盤町山があり、錫がとれる。
鐔封県 温水がある。
句町県 もとの句町王国〈名〉である。濮王の頃から設置された。姓は毋。漢の時に封を受け今にいたる。
漢興県
勝休県 河水がある。
都唐県 もとの名は都夢県。
西平郡
【原文】
西平郡,刺史王遜時,爨量保盤南,遜出軍攻討,不能克。「巳」〔及〕遜薨後,寇掠州下,吏民患之。刺史尹奉,重募徼外夷,刺殺量,而誘降李□。盤南平,奉以功進安西將軍,封「前」〔遷〕陵伯;乃割興古「雲南」之盤江、來如、南零三縣〔合漏臥〕為郡。
〔漏臥縣郡治〕
〔盤江縣〕
〔來如縣〕
〔南零縣〕
右寧州,統郡十四,縣六十八。
【訳】
西平郡では刺史王遜の時に爨量が盤南を保持し、王遜が軍を出して攻め討ったが勝つことが出来なかった。王遜が亡くなった後、寇(化外の賊)が州下を掠め取り、吏民は困った。刺史の尹奉は重ねて外夷を募り、爨量を刺殺して李逷に降伏を促した。盤南が平らぐと、尹奉は功により安西将軍に昇進し、〈前〉〔遷〕陵伯に封じられた。興古〈雲南〉の盤江、来如、南零の三県を分割して〔漏臥に結合させて〕郡とした。
〔漏臥県 郡の治所である〕
〔盤江県〕
〔来如県〕
〔南零県〕
ここまでで寧州は統郡十四、県六十八である。
十四、
【原文】
咸熙元年,吳交趾郡吏呂興殺太守孫靖,內附魏。魏拜興安南將軍。時南中監軍霍弋,表遣建寧爨谷為交趾太守,率牙門將「軍」建寧董元、毛炅、孟幹、孟通、爨熊、李松、王素等,領部曲以「討」〔援〕之。谷未至,興已為功曹李統所殺。
泰始元年,谷等逕至郡,撫和初附。無幾,谷卒。晉更用馬忠子融代谷。融卒。遣犍為楊稷代之,加綏遠將軍。又進諸牙門皆雜號將軍,封「吳」侯。〔吳〕交州刺史劉峻、大都督脩則領軍,〔前後〕三攻稷,皆為稷所敗。鬱林、九真皆附稷。稷表遣將軍毛炅、董元等攻合浦。戰於古城,大破吳軍,殺峻、則。稷因表炅為鬱林太守,元為九真太守。元病亡,更以益州王素代之。數攻交州諸郡。
泰始七年春,吳王孫皓遣大都督薛珝、交州刺史陶璜帥「二十萬」軍,興扶嚴惡夷,合十萬,伐交趾。稷遣炅及將軍建寧孟岳等禦之。戰於封溪。眾寡不敵,炅等敗績。僅以身還交趾,固城自守。破敗之後,眾才千人;并新附可有四千;男女萬餘口。陶璜圍之。杜塞蹊徑。救援不至。雖班糧約食,猶不供繼。至秋七月,城中食盡,病、餓死者大半。交趾人廣野將軍王約,反應陶璜,以梯援外。吳人遂得入城。得稷等,皆囚之。即斬稷長史張登、將軍孟通及炅,并交趾人邵暉等二千餘人。受皓詔:傳稷秣陵。故梏稷及孟幹、爨熊、李松四人於吳。通四遠消息。稷至合浦,發病歐血死。傳首秣陵。棄其屍喪於海。幹、松、熊至吳,將加斬刑;或說皓:「宥免幹等,可以勸邊將。」皓原之。欲徙付臨海郡。初,稷等私誓:不能死節,困辱虜手,若蒙未死,必當思求北歸。稷既路死,幹等恐北路轉遠,以吳人愛蜀側竹弓弩,言能作之。皓轉付部,為弓工。九年,幹自吳逃返洛陽。松、熊為皓所殺。初,晉武帝以稷為交州刺史,大封。半道,稷城陷;或傳降,故不錄。幹至,表狀,乃追贈交州刺史。封松、熊後嗣侯焉。
古城之戰,毛炅手殺脩則。則子允隨陶璜。璜以炅壯勇,欲赦之。而允必「欲」求殺炅,炅亦不屈於璜。璜怒,乃裸身囚結面縛〔之〕,呵曰:「晉兵賊!」炅亦烈聲呵曰:「吳狗!何等為賊?」吳人生割其腹。允割其肝,罵曰:「虜腹。」炅罵不斷曰:「尚欲斬汝孫皓,汝父何死狗也。」吳人斬之。武帝聞而矜哀,即詔炅子襲爵。封諸子三人關內侯。九真太守王素,以交趾敗,與董元牙門王承等欲還南中,為陶璜別將衛濮所獲。功曹李祚,見交趾民殘害,還,遂率吏民保郡為晉。祚舅黎晃為吳將,攻伐祚,不下;數遣人解喻,〔欲〕降之。祚答曰:「舅自吳將。祚自晉臣。惟力是視矣。」邵暉子「允」胤,先為父使詣洛,拜奉車都尉。比還。暉敗亡。胤依祚固守。求救南中。南中遙為之援。〔踰時乃拔。〕〔南中〕諸姓,得世有部曲。弋遣之南征。因以功相承也。
【訳】
咸熙元年、呉の交趾郡吏の呂興が太守孫靖を殺し、魏に内通した。魏は呂興を安南将軍に拝した。当時の南中監軍の霍弋は上表して建寧の爨谷を派遣して交趾太守とし、牙門将〈軍〉の建寧の董元、毛炅、孟幹、孟通、爨熊、李松、王素らを率いて部曲を領させて〈討たせた〉〔援護させた〕。爨谷が到着しないうちに呂興はすでに功曹の李統に殺された。
泰始元年、爨谷らは郡に到着し、安撫して和し、初めて蜀に付いた。ほどなく爨谷は亡くなった。晋は馬忠の子の馬融を用いて爨谷に代わらせた。馬融が亡くなると、犍為の楊稷を派遣して代わらせ、綏遠将軍の官を加えた。また諸牙門を昇進させてみな雑号将軍とし、〈呉〉侯に封じた。〔呉の〕交州刺史の劉峻、大都督の脩則が軍を領して〔前後〕三度楊稷を攻め、いずれも楊稷に敗られた。鬱林、九真はみな楊稷に付いた。楊稷は上表して将軍毛炅、董元らを派遣して合浦を攻めさせた。古城で戦い大いに呉軍を破り、劉峻、脩則を殺した。楊稷はそこで上表して毛炅を鬱林太守とし、董元を九真太守とした。董元が病没すると、益州の王素を董元に代らせた。しばしば交州諸郡を攻めた。
泰始七年春、呉王孫皓が大都督薛珝、交州刺史陶璜を派遣して〈二十万の〉軍を率いさせ、扶厳の悪夷を動員して合せて十万で交趾を伐たせた。楊稷は毛炅および将軍の建寧の孟岳らを派遣して防衛させ、封渓で戦った。衆寡敵せず、毛炅らは敗績した。わずかに身を以て交趾に帰還し、城を固く閉ざして自守した。敗れた後、軍勢はやっと千人で、新たに付いた者は四千ほど、男女一万人余りであった。陶璜はこれを包囲し、交通を封鎖した。救援は到着せず、食糧を節約しても供給が続かなかった。秋七月に至り、城中の食糧は尽き、病、餓死者が大半となった。交趾の人の広野将軍王約が反して陶璜に内応し、梯をおろして外の敵を手引きした。呉人はついに入城し、楊稷らを捉え、みな捕虜とした。すぐに楊稷の長史の張登、将軍孟通および毛炅、交趾の人邵暉ら二千余人を斬った。孫皓の詔を受け、楊稷を秣陵へ移送することになった。ゆえに楊稷および孟幹、爨熊、李松ら四人を呉で手かせをつけて拘束し、四方まではるかに消息を伝えた。楊稷は合浦に至って発病し、血を吐いて死んだ。首を秣陵に送り、その屍を海に遺棄した。孟幹、李松、爨熊は呉に至り、斬刑に処せられることになった。ある者が孫皓にこう説いた「孟幹らを赦免すれば辺境の将たちに我が国へ付くことを勧めることができます」孫皓はこれを許し、臨海郡へ移住させようとした。はじめ、楊稷らは個人的にこう誓いを立てていた「節に死ぬことができず賊の手に辱められることとなった。もし死を被らなければ北に
古城の戦いでは毛炅が手を下して脩則を殺した。脩則の子の脩允は陶璜に従っていた。陶璜は毛炅が壮勇であるため毛炅を赦そうとした。しかし脩允が必ず毛炅を殺すことを欲したため、毛炅もまた陶璜に屈しなかった。董璜は怒り、毛炅を裸にして後ろ手に縛り「晋兵賊め!」とどなりつけた。毛炅もまた声をはりあげた「呉の狗め!おまえらこそどうして賊をなすのだ」呉人は毛炅の腹を生きたまま割いた。脩允は毛炅の胆を割いてののしった「賊腹め」毛炅は絶えず罵り続けて言った「お前らの孫皓を斬ってやる!お前の父はどうして役立たずなのか」呉人は毛炅を斬った。武帝はこれを聞いてあわれみ、詔して毛炅の子に爵を継がせ、諸子三人を関内侯に封じた。九真太守の王素は交趾で敗れたため董元および牙門の王承らと南中に帰還しようとし、陶璜の別将の衛濮に捕えられた。功曹の李祚は交趾の民が害されているのを見て、帰還して吏民を率いて郡を確保し晋に帰順した。李祚の舅の黎晃は呉の将となり、李祚を攻めたが下せず、しばしば人を派遣して李祚に降伏するよう説得した。李祚はこう答えた「舅殿は呉の将、私は晋の臣です。戦い合うのみです」邵暉の子の邵〈允〉胤は前に父の使いで洛陽に参詣し、奉車都尉を拝した。洛陽から交趾に戻ると邵暉は敗死していた。邵胤は李祚にたよって交趾を固守し、南中に助けを求めた。南中は遙かに邵胤を援助した。〔しばらくして交趾は陥落した。〕〔南中の〕諸姓は代々部曲を有した。霍弋が彼らを南征に派遣し功によって代々継承しているのである。
十五、
譔曰
【原文】
譔曰:南域處邛笮五夷之表,不毛閩濮之鄉,固九服之外也;而能開土列郡,爰建方州,踰博南,越蘭滄,遠撫西垂,漢武之跡可謂大業。然,要荒之俗,不與華同,安邊撫遠,務在得才。故高祖思猛士作歌,孝文想頗、牧咨嗟。斯靜禦之將,信王者所詳擇也。馬、霍、王、尹,得失之際,足以觀矣。交趾雖異州部,事連南中,故并志焉。
【訳】
譔に曰く、南域は邛笮五夷の表、不毛閩濮の郷に拠っており、もとより九服の外(帝王の支配の及ばない地)である。しかしよく土地を開き郡を列し
参考文献:船木勝馬編(分担者:飯塚勝重、池田雄一、菊池良輝、谷口房男、北條祐勝、山内四郎)「華陽国志訳注稿(4)」(『アジア・アフリカ文化研究所研究年報』第12号、1978年3月、p.53~p.135)
2023年1月27日現在、「華陽国志訳注稿(4)」は国立国会図書館の「個人向けデジタル化資料送信サービス」の対象となっています。
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