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「七分の実事に三分の虚構」の出典は?章学誠『丙辰札記』の該当箇所を読んでみた

三国志演義についての評で「七分の実事に三分の虚構」という言葉があります。
これはしんの史学者 章学誠しょうがくせい(1738~1801)の『丙辰へいしんさっ』にある言葉だそうです。
どういう文脈で出てきた言葉なのか読んでみましょう。

『丙辰札記』は書評です。
この記事では三国志演義に関する部分だけを抜き出して、原文と和訳を併記する形で翻訳します。

原文と日本語訳(現代語訳)

演義之最不可訓者桃園結義,甚至忘其君臣而直稱兄弟,且其書似出水滸傳後,敘昭烈關張諸葛俱以水滸傳中舊苻嘯聚行徑擬之。

演義の最もいただけないのは桃園とうえんけつである。
君臣であることを忘れ兄弟を称するとははなはだしい。
この書はすいでんの後に出ているようで、昭烈しょうれつ皇帝(劉備)、関羽張飛諸葛亮の描き方はみな水滸伝ぞくのふるまいをなぞっている。

諸葛丞相生平以謹慎自命,卻因有祭風及製造木牛流馬等事,遂撰出無數神奇詭怪,而干昭烈未即位前君臣僚案之閒直似水滸傳中吳用軍師,何其陋耶。

諸葛丞相は誠実で慎み深い人なのに、風を祭ったり木牛流馬を作ったりと無数のイリュージョンが描かれており、昭烈皇帝がまだ即位していないうちから即位の計画を語らうなど、水滸伝よう軍師のようである。なんといやしいことか。

張桓侯史稱其愛君子是非不知禮者,演義直以擬水滸之李逵,則侮慢極矣。關公顯聖亦情理所不近。

桓侯かんこう(張飛)は史書では君子を好み礼を知らない者ではないと称されているのに、演義ではまるで水滸伝李逵りきのように描かれており、きわめて傲慢である。
関公が霊験をあらわすこともまた情理から離れている。

蓋編演義者本無知識不脫傳奇習氣,固亦無足深責。卻為其意欲尊正統故于昭烈忠武頗極推崇而無如其識之陋耳。

思うに演義の編者に知識がなく伝奇のやり方から脱していないことは深く責めるほどのことではない。
正統を尊ぶために昭烈皇帝や忠武侯(諸葛亮)を絶賛しようとしながらその知識がないというお粗末さなだけである。

演義之書,如列国志、東西漢說、唐及南北宋,多紀實事。西遊、金缾之類全憑虛構皆無傷也。惟三國演義則七分實事三分虛搆,以致觀者往往為所惑亂,如桃園等事學士大夫直作故事用矣。

およそ演義のたぐいの書、例えば列国志、東西漢演義、唐および南北宋演義は、実事を多く記している。
西遊記金瓶梅きんぺいばいのたぐいは全て虚構であるからみな無害である。
ただ三国志演義七分が実事、三分が虚構であって、見る者を往々にして混乱させる。
桃園などの事は教養のある士大夫でも故事とみなしてしまっている。

演義之屬雖無當於著述之倫,然流俗耳目漸染,實有益於勸懲,但須實則概從其實,虛則明著寓言,不可虛實錯雜如三國之淆人耳。

もとより演義のたぐいは著述というようなものではないにしても、世俗の耳目に浸透してゆき、勧善懲悪に実に有益である。
ただし実なら実事の通りでなければならないし、虚なら物語であることを明確にしなければならない。
三国演義が人を混乱させているように虚実が錯綜しているべきではない。

まとめ

この文章で章学誠が言っているのは、要約するとこういことでしょうか↓

三国志演義水滸伝のようになってしまっているじゃないか 
三国志がこんなヤクザな世界観なものか 
まあ、ものを知らない奴が書いたのなら目くじらたてることもない 
俗人が勧善懲悪を学ぶにはいいツールだろう 
ただこれだけは言わせてくれ 
虚構と史実まぜるな危険! 

虚構と史実まぜるな危険、って現代でもよく聞くフレーズですが、二百年以上も前から言われていたんですね。

「七分の実事に三分の虚構」という言葉は、史実を想像力で膨らませて素晴らしい物語になっていると褒める文脈の中ではなく、史実と虚構が微妙に混じり合っていて紛らわしい、間違えちゃう、気をつけなくちゃ!という文脈で出てきた言葉だと分りました。

はい章学誠先生。分りました~。
気をつけまぁす…。

原文引用元:中国哲学書電子化計画 章學誠丙辰札記(光緒聚學軒叢書)
最終閲覧日:2021年10月10日
URL:https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=85739&page=128
※句読点を補いました。